昨年暮れに奇妙な偶然からファーブルの手稿を入手し,一時学部長室に保管するここととなったが,先日,そもそもの発見者である松原秀一先生とその不思議なお仲間の方々が見えられ,ファーブルや昆虫や子供時代や奇人の話題を惜しげもなく撒き散らしていかれた。昨今の無粋な日々からすれば,一場の夢のような贅沢なひと時だった。この手稿自体については,いずれどなたか相応しい方によって詳しく紹介されるであろうが,その折,見事な造作の装丁に収められたこの手稿の前の持ち主はどんな人だったのかという話から,一冊の書物の遍歴を辿った物語を一度書いてみたいと口にした人がいた。
これは確かに古書を手にする時,誰もが感じることではないだろうか。例えば数年前,久保正彰先生から長い電話をいただき,先生の所蔵になるアルドゥス版のホメロスの謎の欄外書き込みの主を紆余曲折の末についに特定できたというお話をお聞きしたことがあった。また,個人的な例を挙げれば次元は違うがオランダの書店で購入したある高名な古典学者の蔵書には強い煙草の香りが残っており,今でもそれらの本を開くたびに前の持ち主の気配が感じられるような気がしたこともあった。
さて,そうした例の一つとして思い出話をしてみたい。オクスフォードの古書店をひやかす楽しみの一つは,高名な学者の蔵書の書き込みやページの間に挟まれた手紙などを発見することだが,私も何度かそうした僥幸に恵まれたことがあった。そのひとつがB.S.Pageの蔵書がBlackwell'sに出た時だった。かなりの数の書物の中にStephen MacKennaのPlotinos翻訳ノートが含まれていた。MacKennaはアイルランド出身のジャーナリストであり,ギリシア・トルコ戦争に際してはギリシア義勇軍に参加した冒険家であり,また初めてPlotinosの英訳を完成させた学者でもあった。しかし,彼が1905年頃,ロシア革命の只中でPlotinosの翻訳を始めたときには,一度完全に忘れてしまった古典ギリシア語を勉強しなおしている最中だった。ニューヨークのギリシア人コミュニティーの中にいた関係で現代ギリシア語はある程度使えたようだが,難解をもって知られるPlotinosを読みこなすのは並大抵ではなかっただろう。そこで新進の学者であったE.R.Doddsとの文通が始まったのである。MacKennaのノートは4冊あり,最初の2冊はR.VolkmannによるEnneades II及びIIIのテキストを,次の2冊はH.F.MuellerによるEnneades IV及びVのテキストをそのまま貼り付けて細かく注記を施したもので,そこにDoddsからの手紙がピンで留められている。表紙はぼろぼろになっており,注記自体も様々な時期に書かれたらしく,インクの色が異なっている。そのDoddsがMacKennaの助手として推薦したのがバーミンガム大学での最初の学生のB.S.Pageだったのである。Doddsの手紙については以前,別のところで書いたので繰り返さないが,Enneades IIには一通,IIIには三通の手紙があり,その内の一通は1919年6月28日,もう一通は1920年11月22日の日付となっている。英訳の出版は1930年に完成するが,第二巻の出版が1921年であり,この頃はアイルランドが大変な時期だったばかりでなく,私生活でもMacKenna自身と夫人ともに病に冒され,苦難の時代だった。このことを思うと,このぼろぼろになったノートには多くのドラマが隠されているように感じられる。
この時,E.R.Doddsが編集したMacKennaの日記と書簡集(1936年)もB.S.Pageの蔵書に含まれていたのだが,どういう訳か非売品だった。ところが,帰国の日が近づき,顔なじみのBlackwell'sの店員に挨拶すると,にやっと笑って奥から件の書簡集を出してきて,プレゼントしてくれた。これもまた本にまつわる懐かしい思い出の一つである。 |