『論語』は孔子(紀元前551〜紀元前479)の言葉を弟子達が編集した書物で,孔子の没後,中国の戦国時代(紀元前8世紀から3世紀ころ)に成立したものである。「学んで時にこれを習う,またよろこばしからずや」で始まる20篇およそ500章の一書は漢代以降(紀元前2世紀頃以降)儒教の基本聖典となった。魯(山東省)の国で理想の政治を実現しようとして説き続けた思想は,中国人の人生観に今も根強く生き続けている。 その『論語』が日本に渡ってきたのは,応神天皇の16年(285)のことであった。朝鮮半島の大国,百済の国の王仁が伝えてきたという。その後,朝鮮でも日本でも『論語』の世界を実現する儒教文化が国民文化の一端を担うこととなった。平安時代には儒教文化の経典を専門に解釈する宮中の博士が『論語』を伝えたが,一般に普及することはなかった。鎌倉・室町時代になると,学問を身につけた僧侶が仏典だけではなく儒教の経典や中国文学に深く通じ,その風習が次第に武士の間にも浸透し,『論語』は多くの人々が読むべき経典となっていった。すでに平安時代から芽生えていた出版文化は,こうした時代の要求を具現化する格好の手段となって,南北朝の正平19年(1364)に初めて日本で『論語』が出版された。室町時代には,博士家の中興の祖,清原宣賢(1475―1550)の監修により,天文2年(1533)第2回目の出版が行われた。前者を正平版,後者を天文版と呼び,日本における『論語』出版物の双璧をなす。正平版は今に版木が遺り,室町時代の印刷本が数多く現存する。天文版は大正時代まで刷り続けられたが,室町時代に印刷された初印本は,現存しないと言われてきた。今回慶應義塾図書館に入蔵した天文版『論語』は,この幻の初印本であり,日本の『論語』印刷史を書き換える,大きな意味を持つ一本なのである。 この初印本の巻末には,「天文癸巳八月乙亥 金紫光祿大夫拾遺清原朝臣宣賢法名宗尤」(写真右)という当時の漢学者であった清原宣賢の天文2年(1533)の跋文がある。また跋文冒頭に「泉南有佳士厥名曰阿佐井野」とあることから,堺の阿佐井野氏一族によって刊行された古版本の1つで,阿佐井野版と呼ばれている。次の頁には跋文の年号とくらべてもほぼ同年代である,33年後の永禄9年(1566)に宣賢の孫である清原枝賢によって書かれた「永祿歳舍丙寅菊月二十又九袖<中略>司農卿清原朝臣「枝賢」(印)」(写真左)という自筆奥書が続いている。さらにその裏面には永禄10年(1567)に枝賢の門下であった楠正種が妙覚寺建住坊にあてた花押つきの墨書もある。その妙覚寺の住職であった日奥(1565〜1630)が所蔵していたことを示す「妙覚寺常住日奥」という印記も冒頭にある。京都の妙覚寺は天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長の長男信忠がいたため炎上しているが,この天文版『論語』は無事に後の世に伝えられたようだ。本文にも全頁にわたって古い朱墨の訓点書入れがあり,保存状態も良好である。表紙裏には江戸幕府に古筆の鑑定家として仕えた古筆家(こひつけ)の「琴山」印のある極め札(鑑定書)が貼付されている。 天文版『論語』の版木は戦前までは大阪府堺市の南宗寺に残っていたが,戦災で消失してしまった。この天文版『論語』は当時の印刷技術や版様式などを知る上でも貴重な資料である。
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