1.はじめに 世の中,何が起こるかわからない。起り得るトラブルを予測し,危機管理に努めねばならない図書館でも,様々な予想外の出来事が起こっている。慶應義塾大学の図書館に勤務して20年余の経験の中から,この場を借りてその一端をご紹介しよう。
2.自然災害と建物
・風水害 印刷物を多数所蔵する図書館の大敵は火と水である。火の用心と防火設備を心がけており火事で大事に至ったことはないが,大雨による水の害には時折悩まされる。老朽化した建物だけでなく時には出来て間もない建物でも,予想以上の雨量が強風で叩き付けられて,窓枠の隙間や壁面のひび割れなどから沁み込むことがある。また,屋上や天井裏,地面に溜まった雨水が沁み込んだ時には途切れることなく壁や書架の柱をつたって落ちてくる水に肝を冷やした事もあった。信濃町地区では,排水溝が詰まって逆流した雨水で地下が浸水したこともある。年に数回の危険ではあるが特に老朽化した建物では防水対策はしっかり行っておくに越したことはない。
・停電 昔に比べめったに落雷による停電もなく,無停電電源装置なども設置されるようになったが,それでも起り得る事故である。以前は館内が暗くなるとかエレベーターが動かない程度の被害であったが,現在では閲覧業務もデータベース検索も整理業務も館内の多くの設備も電気が頼りである。数年前に停電に遭遇した際には復旧見込が立たなかったため,利用者の安全を確認し,閉館の旨を伝える他には何も業務ができず,日頃いかにコンピュータとネットワークに頼って仕事をしているかを身に沁みて感じることとなった。
・地震 東京では幸運にも,このところ大地震には見舞われていないが,中規模の地震でも書架から数冊の図書が落下している様子を見ると,大きな横揺れで重い製本雑誌が次々と書架から落下する様は,想像するだに恐ろしい。
3.図書館イメージの変化
この20,30年というもの,図書館は,重苦しいイメージを払拭し,明るく,親しみやすい,役に立つ施設であることを売り込もうと様々な努力を重ねてきた。おかげで随分とイメチェンは出来たが,その変化による予想外の影響についても目を背けずに受け止めねばならない。図書館利用に対する緊張感が薄れ,「図書館では静かにする」,「図書館内で飲食しない」という常識が,若い世代にはもはや常識ではないようである。 閲覧席で騒がしくしているグループ,携帯電話で長々と喋り続ける学生,閲覧席でおやつを食べている者などにスタッフが注意しても,なぜ注意されるのか心外に思う学生も多いようである。スタッフは常識に外れた者として注意しているのであるが,彼らには罪悪感がないのである。図書館の資料が汚れるからと飲食を注意しても,館外貸出してカフェや食卓で読めば同じ事だと言われれば反論できない。説得力のある理由が説明できなければ,高圧的に注意しているようにしか感じられないだろう。図書館は水拭き掃除がしにくいからとか,飲食物のゴミが害虫の発生の原因となるからとか,理由は様々にあるのだが,細々と説明するのも言い訳がましい。注意される利用者の反応が悪いと注意するスタッフの側にもストレスが生じてしまう。
4.利用者の世代の変化 新人類という言葉も死語になった感があるが,私からみれば現在の大学生は,何世代も離れた感覚の異なる人々である。 多分に感覚的な印象ではあるが,彼らは聴力が落ちているのか大音量に慣れているのか,話し声が大きい。エントランスホールや廊下で声が響きやすい日吉メディアセンターでは,カウンターまで話の内容が筒抜けであったり,他のグループの話し声に負けないようさらに大きな声で話す者もいる。スタッフや教員など年配者には耳障りでも彼らはあまり気にならないようである。 飲食についての感覚もかなり異なるようである。電車内での飲食に抵抗が少なくなったのと同様に,授業中や図書館での飲食にも抵抗がないらしい。特に飲み物についてはペットボトルでの持ち歩きが容易になったこともあり,水分補給は必要な時にどこででも行うようである。湘南藤沢メディアセンターでは,昨年よりこの習慣を認め,ペットボトルによる飲み物を館内許可エリアでは認めている。湘南藤沢キャンパスは他のキャンパスへ進学しない閉じたキャンパスであることから早期に実現したが,日吉キャンパスの学生は三田や理工学のキャンパスへ進学するため,この対応については慎重に判断する予定である。 「自己中心的」な学生が増えたように思う。レポートや試験の課題となったテキストを我先にと借りて,返却期限が過ぎても延滞金覚悟で締め切り日まで返さない学生も少なくない。留守宅の家族に督促の伝言をお願いしても「まだ必要だから返さないんだと思います」という親までいる始末である。図書への書き込み,紛失本が多いのも,自分さえ良ければそれでいいという感覚の現われと思うのは考えすぎであろうか。日吉メディアセンターでは,3年前から「みんなで使う図書館だから」という標語で年に1,2回,館内静粛,飲食禁止,書き込み注意などを盛り込んだ図書館利用マナー展示を行っているが,図書館の設備,資料は,譲り合って使うもの,後の世代も使うものという感覚は非常に薄いようである。
5.想定外の行動 利用対象者の図書館における行動を予測して用意された図書館の設備も,予想外の行動には無力である。以下はその数例である。ある日「座ったら机が割れてしまいました」と学生が告白に来た。6人がけの長テーブルの中央の支柱が外れかけているのをそのままにした図書館側も悪いが,机は腰掛けるものではないと思うのだが。別の日には壁に足跡大の穴が発見された。高さからして曲げた片足をあてて壁にもたれかかったと思われる。壁の向こうがスカスカだったのも不運だが当の学生も驚いたことだろう。出口扉のガラスを蹴破った学生もいる。「ムシャクシャしていたので,閉まりそうなドアを足で蹴って開けようとしたんです。」とのこと。このような力のありあまった学生達のためには,鋼鉄のような図書館が必要である。 一方,試験前で無理して体調を崩した学生や,年輩の利用者が,館内で具合が悪くなることもある。図書館は床面積が広い割にサービスポイントが少なく,また,夜間や週末の開館などスタッフの少ない時間帯も少なくない。毎回緊急連絡体制などを確認はするものの,病人を前にするとオロオロしてしまうのが常である。
6.悪質な行為 ページの切取り,線引きなどは,昔からある行為とはいえ,前述のように「自分さえよければ」というモラルの低い利用者が増えていると感じる。ページの端を折ったまま返却される図書の大半は,重要と思われる箇所に線が引かれている。鉛筆なら消しゴムで消せるが,消すことのできないボールペンやマーカーペンで線引きされたものも少なくない。雨に濡れて膨らんだ図書や不可思議な臭いを発する図書も返却される。公共のものだという意識が低いようである。 無断持出も相変わらずなくならない。語学の辞書を持ち出そうとして退館ゲートに止められる者や,ゲート突破のためにカバーをはずされた辞書やテキスト類も発見される。蔵書点検時に発覚する行方不明本も日吉メディアセンターでは毎年200冊を越える。 社会の縮図として,平穏に見える図書館内でも犯罪が発生している。財布など盗難の被害については,無防備な利用者にも原因がある。閲覧席の場所取りに荷物を置いたまま席を離れた隙に荷物ごと取られる被害も多い。注意を喚起するポスターを掲示したり,毎日のように館内の巡回を行っているが,財布で場所取りをする者や,貴重品を出したまま眠りこける者などが後を絶たない。 日吉以外の例も含むが,ストーカーに近い無断撮影,図書館スタッフの注意に対し刃物を向けた者,トイレで頭上から覗かれた者,物騒な内容の脅迫文を館内にばら撒く者,パソコン一式の盗難なども報告されている。各地区の図書館には人目の少ない書庫フロアなどもあり,図書館は安全なところだというイメージは返上せねばならないだろう。
7.予想外の出来事にどう対応するか 危機管理を完璧に行うためには,考えうる限りの事故に対し,発生を未然に防ぐ対策(規制)などを行わねばならない。しかし,予算には限りがあるし,ここまで紹介してきたように,図書館スタッフの考えもつかない出来事が次々と起こる。また,図書館スタッフ,特にパブリックサービス担当者は,サービス向上をめざし,利用者の便宜を図ることを重視する傾向は強い。これに対して,確率の低い危機のためにあれやこれや制限をするのは,相反する方向性であり悩ましい問題である。 現在の時点では,生じた被害に対しては,影響は最小限に抑え,迅速かつ効果的に,冷静に対応できるように,経験を共有すること,利用者に対しては,他の利用者の迷惑にならぬようにする,悪意がなかったことを確認し繰り返さぬよう注意する,教育的見地から新入生に対するマナー教育と考え,日々納得のいくように説明し教育することなどの努力をしている段階である。 前述した日吉メディアセンターのマナー展示は,破損本や線引きなどで汚損した図書の展示からアイディアが生じたものである。加えて,飲食禁止や館内静粛,次の人のために手に取った資料はもとの場所に戻すことといったマナーについても合わせてとりあげ,「みんなで使う図書館だから」という標語のもとに,共通の施設や蔵書を大切に使うよう呼びかけることを念頭に置いている。この展示でも日々の説明でも,マナー違反の行為によって迷惑を受ける側の立場からみて不愉快なことは,自らも行わないようにと伝えたいのだが,最近の若者は,他人の気持ちになって考えてみるということも不得意なようで困ったことである。
8.終わりに “図書館として作られた建物だから大丈夫”,“図書館は譲り合って静粛に使うのは常識”,“キャンパス内の他の場所よりは夜も人目があるし守られた安全な場所”と言う期待は,いよいよ捨てないといけない時期に来ているのだろう。期待によるイメージとは離れて,現況,実際の利用者像に即した対応を考えて行かねばならない。 図書館は行儀よく静粛に使うものだという共通認識がないとなれば,館内のエリアによる棲み分け,守るべきルール,マナーの教育を進める必要があろう。毎年新入生を迎える日吉および湘南藤沢のキャンパスは責任重大である。慶大生として恥ずかしくない社会性を身に付けるという面では,キャンパス全体の協力体制も欲しいところである。 一方で防災,防犯という面では,楽観視せず,後手に回らぬように手を打っていきたいところだ。各キャンパスの図書館の建物は湘南藤沢でさえ15年たち次第に老朽化が進んでいく。補修はしっかり行いたい。また,今後ますます公開性を求められる大学図書館ではあるが,入館時のセキュリティチェックなどは,より厳密に行っていく必要があるだろう。
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