本部の図書担当に配属されて4年目になる。毎日300冊以上を受け入れ,約1週間で整理を終えて各地区に送付してしまう「工場」に,初めは少し戸惑った。1冊1冊の処理にもスピードが要求されるため,惹かれる本はたくさんあっても,内容まで読み込めることは少ない。LCSH(米国議会図書館件名標目)や分類付与などのため,必要に迫られて資料を読む時間はとても貴重である。 そして整理を終えた資料が一旦本部を出て,各地区に送付されてしまうと,その資料がどのように利用されているのか,直接見聞きすることはない。 時々,あの時整理した本は今どうなっているのかな,と思い,OPACを検索してみる。「在架」になっていて,借りられると喜び,書架に行って本を開いた時,Date Dueの欄に貸出の記録がないと少し複雑な気持ちになる。逆に「貸出中」になっていると少し残念なものの,利用されているのだとホッとする,ということを繰り返している。 そんなカレントの処理ラインとは別に,届くのを密かに楽しみにしている資料がある。義塾の卒業生による学位論文である。本部では,毎年提出される学位論文1000冊以上のほぼ全ての整理に関わっている。私は現在その担当で,幸運にも,これら全てに触れるチャンスを頂いていることになる。 今年もたくさんの学位論文が届いた。ほとんどは黒い背に金や白の文字でタイトル,著者名などが印刷されており,それらがブックトラックに整然と並べられている姿は壮観である。眺めていると,卒業生達の汗と涙の結晶に対して尊敬の念が湧いてくる。整理の過程で中身を見ると,内容は専門的で難しく,つい謝辞に目が行ってしまう。指導教授や先輩への感謝,同級生との思い出が綴られていて,ある時は研究室に泊まり込みで,ある時は休日返上で研究に取り組んだであろう姿に思いを馳せてみる。 ほとんどの場合,論文の最後に多くの参考文献が挙げられている。この中に,おそらくメディアセンターの資料,あるいはメディアセンターで提供しているデータベースを利用して探し出した資料も含まれるはず…と思い,彼らがその資料に到達できた時の様子を想像する。また過去の学位論文が参考文献として挙げられているものも多い。いずれはこの論文もきっと誰かに引用されるのだろう。こうして研究は積み重なっていくのだと改めて知る。 ある時,「あなたの仕事のやりがいは何?」と問われ,曖昧にしか答えられなかった。利用者と接する機会がない今の仕事は,目録作成に集中できる一方で,仕事の結果が図書館サービスにどのように活かされているのか見えにくい面もある。いつの間にか仕事の意義を見失いかけていたのかもしれない。 しかし,あの黒い背の一群がやってくるとわくわくし,同じように黒く製本された本をみると,学位論文だと錯覚してしまう今なら,あの問いに明確に答えられそうな気がする。目録作成という私達の仕事の結果が,こうして確実に利用者の研究成果となって表れることを実感しているから。 学位論文の業務は,配属されて1年後,カレントの処理とは別に最初に与えられた仕事である。誰でも,最初に与えられた仕事には特別な思いがあると思う。学位論文は外見こそ一様であるが,中身は学生が思い思いの書き方をしているため,普通の本と同じようにいかない部分も多い。1冊1冊が新鮮である。また卒業生の著作という特殊な性質上,扱いにも慎重さが求められる。初めて自分の領域を得た喜びと引き換えに,力不足を痛感する毎日である。周りの方々に見守られながらの,とても小さな責任が,様々な勉強のきっかけを与えてくれている。 近い将来,学位論文をオンラインで読むのが普通になるかもしれない。あの黒い背の本を手にすることがなくなるとすれば,少し淋しいけれど,資料のサービスに関わるすべての人が,連綿と続く研究の一端を担っていることに変わりはない。その時,姿を変えた資料は何を教えてくれるのだろう。時々そんな日を想像しながら,私は今日も未整理本と,その向こうにいる将来の利用者と向き合うのである。
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