文字や行間から立ち上ってくる雰囲気を楽しむことこそ読書の醍醐味だ。車通勤の友人がもっぱらカセット・ブックスを聴いて「読書」しているなどということを聞くたびに,なんと味気ないと思っていたものだが,最近はかく言う私もすっかりオーディオ・ブックスでいわゆる聴書を楽しむようになった。 現在好んで聴いているものは英語のドラマ作品である。同じ作品でも人気のあるものにはいくつものオーディオ・ブックスが出版されているので,それらを聞き比べてみる。間の置き方も感情の込め方もすべて異なるし,読み方ひとつで同じ文章がまったくちがった意味合いを帯びるのが面白い。もちろん同じ作品といえども,購入したさまざまなCDのどれひとつとして,自分の思い入れとなにもかも一致するものはない。自分が思い描いていたキャラクターとの違いが浮き彫りにされることもあって実に楽しい。音読されてはじめて言葉も文章も生きてくる。そしてまったく異なった命を授けられるのだ。 言葉は文化の一部であることはいまさらいうまでもないが,文字に対する人々の思い入れはまた,文化によって異なってくる。日本語は,視覚に頼るところが大きい。同じ言葉でもひらがなで表すのとカタカナで表すのとでは,意味も微妙に異なる。同時に同じ言葉にも複数の漢字があり,その使い分けが重要な役割を果たす。声に出し,耳で聞くだけでは成しえないことだ。たとえば「さびしい」という言葉。「寂しい」のか,「淋しい」のか「さびしい」のか「サビシイ」のか。はたまた「サビシー」のか。言葉そのものが絵となって情感までも伝えてくれる。つまり日本人は耳で聞くだけではなく,常に聞いたことを文字としてもう一度見ることで,はじめて解釈したと納得するのではないだろうか。最近のバラエティ番組の中で,押し付けがましく画面に映し出される話し言葉のキャプションや中・高校生たちが使う丸文字もそんな文化の一部なのだろう。 言葉のまわりに漂う情感すら,文字とその文字を取り囲む空間の中に閉じ込めてしまう日本人の能力は,空間を最大限に活かした屏風絵やアニメーションの世界にも遺憾なく発揮されている。また,浮世絵をはじめとし,アニメの世界で展開されるいわゆる「キャラクター」作りの才能は,見たものの特徴を的確に掴みとり,ときにそれをデフォルメしながら抽象化する日本文化の伝統に根ざしている。もとをただせば,漢字もこの抽象化された絵から始まったものだ。この伝統の中からキティーちゃんも村上隆のスーパーフラットも生み出されたのである。 だからこそ,日本語の読み物は,文字を目で確認しながら行うことにこそ意味がある。 それに対し,アルファベットの世界の場合はどうだろうか。こちらでは「音」こそ命である。もちろん日本語に音が無いわけではない。5・7・5調のリズム感,豊かな擬態語,擬声語はこの文化に根ざした鋭敏な音感が生み出したものである。しかし,英語の世界で繰り広げられる音の世界はさらに複雑だ。頭韻・脚韻に始まり,イントネーションやアクセントを駆使しためくるめく音の世界は,それ自体がひとつの物語となって私たちの耳に響く。また,英語をしゃべる人々が「豪雨」のことを,“It rains cats and dogs.”というときに,それはもうひとつのアニメーションであると同時に,けたたましい音となって私たちの想像力を掻き立てるのである。この表現に代表されるように,言い回しや熟語の多さは,これもまた言葉を並べての絵画表現であり,アルファベットの世界独特の文化である。 見て感じるか,聞いて感じるか。読書の楽しみはその双方である。文字文化以前の人々の楽しみは,もっぱら「話し」,「聞き」,「語り継ぐ」ことだった。最近は「見る」ことに情報の受け取り方が着実に移行しつつあるからこそ,声に出して日本語を楽しむという風潮が高まってきているのだろう。しかし「聞く」ことはどうだろうか。この点,どうも私たちの力は鈍ってきているように思えてならない。 文字だって五感を使って味わいたい。大学という現場で声に出して言いたいのは,そのことである。
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