1 機関リポジトリとは 機関リポジトリ(Institutional Repository)の定義として,国立情報学研究所では,Lynchの定義(参考文献1)に従い,「大学とその構成員が創造したデジタル資料の管理や発信を行うために,大学がそのコミュニティの構成員に提供する一連のサービス」としている(参考文献2)。つまり大学が生み出した電子的資料を収集・保管し,広く提供するシステムとされている。 現在,機関リポジトリは世界で400件存在するとも(参考文献3),700件存在する(参考文献4)ともいわれている。日本においても,科学技術・学術審議会学術分科会研究環境基盤部会学術情報基盤作業部会が『学術情報基盤の今後の在り方について(報告)』の中で(参考文献5),「学術情報基盤を取り巻く環境が急速に変化」することへの具体的対応策として,「機関リポジトリへの積極的な取り組み」を求めている。また国立情報学研究所は,最先端学術情報基盤(CSI)整備のために,各大学での機関リポジトリ構築の支援を事業として展開しており,平成18年度は57大学の計画が採択された。このように機関リポジトリは,現在,大学図書館関係者から多くの関心を集めているといえる。 しかし,機関リポジトリについて書かれている文献や,実際に運用されている機関リポジトリを見てみると,その目的や収録対象範囲はかなり多岐にわたっており,では結局機関リポジトリとは何なのかということは,決して明確になっているとはいいがたい。 前述したように機関リポジトリの定義としてLynchによる2003年の論文はよく引用されるが(参考文献1),Lynch自身が2006年に別の論文において(参考文献6),「2003年時点で感じていた時よりも機関リポジトリ(とは何かということ)が明瞭ではなくなっている」と述べている。 本稿では,機関リポジトリという理念が述べられる文脈,背景を整理し,これが大学図書館にとって持つ意味とは何であるのかを考えてみたい。
2 機関リポジトリの起源 Institutional Repositoryという用語がいつから使われ出したのかの明確な時期は特定できないが,高木は2000年前後ではないかと述べている(参考文献7)。考え方としてはその頃からあったであろうが,この用語の定着と概念の普及に大きな役割を果たした最初の論文は,2002年にSPARCのposition paperとして刊行されたCrowの論文であろう(参考文献8)。 Crowは,機関リポジトリを以下二つの「戦略的問題」に対する対応策として位置づけている。 (1)学術コミュニケーション(システム)の変革 (2)大学の社会的,公共的価値の向上 この2つの目的もしくは文脈から機関リポジトリを位置づける考え方は,2003年のLynchの論文でも同様であり(参考文献1),その後の機関リポジトリの普及にあたってもよく使われている。 この2つの異なる文脈から説明されるという点がポイントで,機関リポジトリを巡るある種のわかりにくさも,また同時に図書館員(図書館界)にとっての機関リポジトリの意味もこの2側面から考える必要がある。Poynderは,「図書館員はセルフアーカイブ運動とは異なる方向性と優先順位をもっている」として,「セルフアーカイブ運動は,機関リポジトリとの間に一線を画するべきである」と2つの文脈の分離を主張している(参考文献6)。 本稿では,主としてCrowとLynchの論文を中心に,2つの異なる文脈から説明される機関リポジトリとは何なのかを検討することを通じて,機関リポジトリが大学図書館にとってどのような意味を持つのかを考える一助としたい。
3 学術コミュニケーションシステムの変革としての機関リポジトリ Institutional Repositoryという用語は使われていなかったが,機関リポジトリの考えは学術論文のオープンアクセス運動の一つとして,当初から位置づけられてきた。オープンアクセス運動とは,オンライン上で,無料もしくは最低限の制約で入手できるようにすることを目的とするものであり,この用語が定着するきっかけとなった2002年のBudapest Open Access Initiative(以下BOAIとする)(参考文献9)において,大きく分けて2つの実現手段(BOAI-IとBOAI-II)が提唱された。このBOAI-Iが研究者によるセルフアーカイブで,機関によるセルフアーカイブもここに位置づけられていた。もう一つの手段(BOAI-II)は,著者支払いモデルを含むオープンアクセス雑誌である。 オープンアクセス運動におけるセルフアーカイブとは,オープンアクセス雑誌とは異なり,現在の購読料モデルの学術雑誌を中心とするシステムは基本的にそのままとしながら,研究者が自らの研究成果を学術雑誌のサイト以外で無料で公開するのを認めるという方法である。既存学術コミュニケーションシステムの「代替ではなく,補完である」とHarnardは繰り返し述べている(参考文献10)。
BOAIが提唱された時点において,著者が自分のサイトで成果を公表したり,分野(主題)別に構築されつつあったe-print archive(たとえば現在の物理学分野のarXiv.orgが代表例である)に,学術雑誌論文の原稿を登録しておくことはすでに始まっており,これらはオープンアクセスをセルフアーカイブとして実現する可能性を根拠づけるものと考えられていた。
しかし,この時点で,機関リポジトリは実際に運用されることで,成功事例となっていたわけではなかった。ただ,相互運用性を保証するためのOAI-PMHや標準的なソフトウェアの開発など機関リポジトリ構築のための技術的な課題はクリアされつつあった。Crowの論文は,大学図書館が上記のようなオープンアクセス運動を中心とする学術コミュニケーション変革時に果たすべき役割として,機関リポジトリという新たな戦略を位置づけようとしたものと考えられる(参考文献8)。
Crowは既存学術雑誌を中心とする学術コミュニケーションシステムを,以下の4つの機能が統合されたものとしている。
(1)登録:研究者による投稿
(2)認定:学界の査読者による査読
(3)報知:出版社,図書館員による図書館での雑誌提供と支援
(4)保存:図書館員による永続的アクセス
この4機能が学術雑誌という形に統合されていることが,少数学術出版社により独占や,効果的な流通の阻害(成果の増大に対応不可能),市場効率の不全(価格の高騰とシェアの拡大)を引き起こしており,電子出版とネットワークによって,この4つの機能を分担して研究者,出版社,図書館員が担っていく非集中型学術コミュニケーションモデルを提案している。
機関リポジトリは,基本的には最初と最後の機能,つまり研究者からの投稿の受付,保管を行う。その際OAI-PMHに準拠すれば相互運用性を確保することができ,メタデータの検索つまりその存在の普及に関しては,また別のサービスを行う機関に任せることができる。またそこで収集されたものに対して,学界の専門家が多様な形での査読を行い,複数の機関リポジトリに収録されている論文を編集した雑誌を別に刊行することも可能と考えている。
Lynchも既存の「学術出版」ではなく,「短期・長期にわたるアクセスを保証することにより,全く新しい形態の学術コミュニケーション」を育成することができるとしている。具体的には,雑誌論文や図書(一部もしくは全体)を電子的に流通させる際に,個人ではなく大学等の機関リポジトリがその長期的な保証を担保することで,印刷媒体ではなくても学術成果物として認めさせていくことを目的としている。さらに,成果を生み出す素材のデータセットや分析ツールも併せて保管することで,データを重視する学術研究の新しい形も支援できるとしている(参考文献1)。 ここで重視されているのは,幅広い学術成果物に関する「インフラストラクチャの提供」と考えられる。Lynchは機関リポジトリの定義としては「一連のサービス」という表現を使っているが,実際に機関リポジトリが展開する具体的サービスは明示していない。むしろ現在のピアレビューに依存する学術雑誌を通じての出版とは別に,学術成果を幅広く流通,保管するシステムがあれば,それを利用して学術コミュニケーションに資する新しいサービスはその後に展開できると考えているように思える。 CrowもLynchも,2002〜2003年という早い時期に,具体的なサービスまではイメージできないまでも,学術成果を幅広く収集,保管する機関リポジトリを構築することで,学術コミュニケーションの変革に大学や大学図書館が大きな役割を果たせると考えたことは明らかであり,上記のような考え方は,オープンアクセスを実現する手段の一つとして機関リポジトリを位置づけているといえる。
4 「電子アーカイブ」としての機関リポジトリ しかしながら,CrowもLynchもその論文の中で,上記のような議論を展開しながら,同時に機関リポジトリが収集する対象として,「学生の知的生産物」,「授業資料」,「イベントやパフォーマンスの記録」,「機関の年次報告」,「美術作品」までもが挙げられている。これは明らかに上記の学術コミュニケーションの変革という文脈からは説明できない。ここが機関リポジトリという概念をわかりにくくしている要因と考えられる。 Crowは多様な目的,範囲としての機関リポジトリの可能性を認め,たとえば「大学アーカイブと機関リポジトリでは役割が重複する」懸念を示しているが,全体としてはSPARCのposition paperとして,「学術コミュニケーションの変革」という文脈を強調している。 Lynchは「大学が生産する知的財産を保存するのは大学の責務」としており,大学で今後ますます増加していくであろうデジタル資料の保管にも機関リポジトリが有効であると明言している。さらに将来的には,大学にとどまらずコミュニティリポジトリ,公共リポジトリへの展開までも視野に入れている。 今後の大学図書館のあり方を考えたときに,デジタル資料の保管は重要な課題である。電子ジャーナルは大学図書館サービスを根本的に変化させてはいるが,大学図書館自体がそのデジタルな媒体の管理,保存を行っているわけではない。機関リポジトリという新しいシステムの構築が,あらゆるデジタル資料の管理,保管システムに応用できるのであれば,それは図書館にとって将来重要な方向性として位置づけることも可能であろう。また,大学に対して新しいシステムの構築のための予算措置などの交渉においても,大学のデジタルアーカイブとしても利用できるというのは,アピールポイントとなる可能性がある。 しかし,現在の学術雑誌を中心とする学術コミュニケーションそのものの変革に大学自体が乗り出すという目的と,今後の大学で生み出されるデジタル資料の包括的なアーカイブを目指すということとは,根本的に異なるものである。 研究者たちに,著名な学術雑誌に投稿した論文を,機関リポジトリでも公開して欲しいと依頼した時に,その機関リポジトリに講義のシラバスや学生のレポート,大学案内などが主として収集されていた時に,果たして研究者たちを引き付けることができるだろうか。この二つの異なる目的を両輪として機関リポジトリを構築,維持していくことが可能なのか,回答を求めるにはまだ早すぎるが,困難な舵取りが要求されることは事実であろう。
5 機関リポジトリの展開と今後の大学図書館 Poynderは,米国などにおける機関リポジトリの現状に関して,インタビューなどに基づき事例を紹介している(参考文献6)。イエール大学図書館では,機関リポジトリは第一に「大学のアーカイブ」,第二に「教育(講義)支援」,第三に「図書館内でデジタル化された資料提供」という機能のためにあり,つまり「伝統的な図書館のデジタル版」と位置づけられている。ここでは「学術コミュニケーションの変革」という方向性は見えない。 カリフォルニア大学は,新しい学術雑誌とモノグラフシリーズを立ち上げ,出版プラットフォームとして機関リポジトリを位置づけようとし始めている。これは学術コミュニケーションの根本的変革というよりは,現在の商業出版社や学会による学術出版の世界に,大学としてより積極的に乗り出す戦略と見える。 オーストラリアのクイーンズ工科大学では,正統的なオープンアクセスの実現を目指して,所属研究者の研究成果を機関リポジトリに登録することを2004年1月から義務化しており,収集件数は約4倍になったとされている。 日本においても,2006年に入り,機関リポジトリの公開が相次いでいる。研究者の査読済みの雑誌論文を中心的に収集しているところ,学内紀要の論文の公開が中心のところ,いわゆる貴重書の図書館で電子化したものの提供も行うところなど,その性格は多様である。 機関リポジトリとは何かに関して,その起源を中心に検討したが,元々学術情報流通の変革期に戦略的に構築が提唱されてきたもので,いまだその構築は端緒についたばかりである。現時点で機関リポジトリとは何かについて明確に答えることは困難である。ただこれまで述べてきた2つの文脈もしくは方向性は,機関リポジトリの共通の性質を考える観点とはなるであろう。 今後,異なる背景を持つ国々で機関リポジトリが構築されていく中で,その性質や利用のあり方も徐々に定まってくるであろうし,日本独自の機関リポジトリの位置づけがあっても当然いいはずである。いまだその試みが始まったばかりである機関リポジトリに関して,唯一の正解は存在しない。これだけさまざまな目的と機能を持つものが機関リポジトリと総称されている現状では混乱や困難も多いと考えられるが,個々の大学図書館はそれぞれの機関リポジトリの目的と範囲を明確にし,少なくとも優先順位をつけて,その構築を大学図書館の今後の展開の中に戦略的に位置づける必要があるであろう。
参考文献
1)Lynch, C.“Institutional Repositories:Essential Infrastructure for Scholarship in the Digital Age.”ARL, 226, February 2003,p.1-7.available from<http://www.arl.org/newsltr/226/ir.html>(accessed 2006-06-15).国立情報学研究所で翻訳された「機関リポジトリ:デジタル時代における学術研究に不可欠のインフラストラクチャ(オンライン)」を参考にさせていただいた。
2)国立情報学研究所開発・事業部コンテンツ課.機関リポジトリ.(オンライン),入手先<http://www.nii.ac.jp/irp/info/repository_j.pdf>,<http://www.nii.ac.jp/irp/rfp/2006/rfp2006-1.html>,(参照2006-06-26).
3)Directory of Open Access Repositories(DOAR). (online), available from<http://www.opendoar.org/>,(accessed 2006-06-26).このサイトには6月26日時点で、389件のアーカイブが収録されている。
4)Registry of Open Access Repositories(ROAR). (online), available from<http://archives.eprints.org/,(accessed 2006-06-26)このサイトには6月26日時点で、699件のアーカイブが収録されている。
5)科学技術・学術審議会学術分科会研究環境基盤部会学術情報基盤作業部会:学術情報基盤の今後の在り方について(報告).東京,2006,100p.
6)Poynder,R.Clear blue water.2006,26p,(online), available from<http://dialspace.dial.pipex.com/town/parade/df04/
BlueWaterMain.pdf>(accessed 2006-06-26).
7)高木和子.世界に広がる期間レポジトリ:現状と諸問題.情報管理.vol.47,no.12,2005,p.806-817.
8)Crow,R.“The Case for Institutional Repositories: A SPARC Position Paper.”SPARC,2002,37p, (online), available from<http://www.arl.org/sparc/IR/IR_Final_Release_102.pdf>,(accessed 2006-06-26).翻訳が以下から入手できる。クロウ.機関リポジトリ擁護論:SPARC声明書.栗山正光訳.2004,(オンライン),入手先<http://www.tokiwa.ac.jp/~mtkuri/translations/case_for_ir_jptr.html>,(参照2006-06-26).
9)Budapest Open Access Initiative. 2002. (online), available from<http://www.soros.org/openaccess/read.shtml>,(accessed 2006-06-26).
10)Hanardはこのような発言をさまざまなところで主張している。たとえば以下のようなメーリングリストでの発言がある。Hanard, S. Rebuttal of STM Response to RCUK SelfArchiving Policy Proposal American-Scientist-Open-Access-Forum, 2005, (online), available from<http://www.ecs.soton.ac.uk/%7Eharnad/Hypermail/Amsci/4716.html>,(accessed 2006-06-26).
|