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『新論』という単純明快な題名のこの書物は,江戸時代後期,水戸藩徳川家に仕えた儒学者会沢安(あいざわやすし)(1782〜1863)(通称恒蔵(つねぞう)・正志斎(せいしさい)と号す)が著した書である。江戸幕府の力が揺らいだ幕末期に,天皇・朝廷を厚く敬う尊王論と,日本周辺に姿を現すことが多くなった西洋諸国の勢力を排除しようとする攘夷論が結びついた尊王攘夷の思想を体系化した書物であった。国家の行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布し,水戸に発達した学風である水戸学の書物としても伝わった。現存の版本も多いが,慶應所蔵本の魅力は松平慶永(よしなが)(1828〜90)の自筆書入れがなされている点である。越前福井藩主であった松平慶永は,隠居後の「春嶽(しゅんがく)」の名で広く知られ,当時の名君の一人として,幕末政治史を語る上では欠くことができない人物である。
『新論』は,文政8年(1825),会沢正志斎が主君徳川斉脩(なりのぶ)に対して意見を呈上するために執筆したものであった。国体(上・中・下)・形勢・虜情・守禦・長計の7編からなり,国の内外における政治的な危機を乗り越え,富国強兵を実現するためには,人々の心をまとめる方法として尊王と攘夷が必要であると強く主張した。だが,その内容により公刊は許されず,同志の間で筆写されて密かに世間に流布したのであった。入手が難しいことは却って本の魅力を高めたようで,公刊前には木活字版も作られた。成立年代や筆者は隠され,「文化乙酉」のように実際にはない年号・干支の組み合わせが記載されることもあった。やがて,安政4年(1857)にようやく江戸玉山堂より整版本として公刊となる。慶應所蔵本もその玉山堂本であるが,「文化乙酉季春」という誤った年代が記載されており,本書をとりまく状況を伝えるものとなっている。
書入れに目を移すと,安政5年(1858)正月の松平慶永の署名,政務の間に思うままに批評を加えたとの記述(「政間毎閲覧妄加批評 元旦後二日 慶永」)のほか,多数の書入れが見られ,大変興味深い。例えば,西洋諸国が無理に日本を圧倒しようとしている現状を述べた部分には,「切歯扼腕(せっしやくわん)の至」(切歯扼腕は,歯がみをし,自分の腕をにぎりしめて甚だしく憤り残念がること)と書入れがあるなど,30歳の壮年藩主であった慶永の感想が生き生きとした言葉で表現されている。他にも,実に惜しいことだ,といった感想や,俗論を踏破する愉快な論である,といった率直な気持ちが記入されている。 この書入れがなされた安政5年正月という時期もまた興味深い。松平慶永は初め攘夷論を主張していたが,安政4年頃には諸外国との外交・通商を目指す積極的な開国論に転じたと言われている。開国論に転じた後,尊王攘夷論の代表的著作である『新論』に書入れられた感想は,松平慶永の思想の形成や主張の変化を知る上でも貴重な素材といえる。 松平慶永は,同じ安政5年の7月,幕府の大老井伊直弼が朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約を結んだことに異論を唱えたことにより,隠居・謹慎を命じられた。一旦政治の表舞台から退くこととなるが,その後復帰を果たし,江戸幕府や明治政府の重職に任じられ,明治3年(1870)に公職を退いた。 本書は,時代が変化する大きなうねりのなかで,その真只中にあった松平慶永が,自らの進路にも変化が現れる時期に手に取ったものであった。それゆえ,書入れの言葉が持つ意味も深くなり,幕末政治史を考える上でも貴重な資料となっている。 (請求記号)[110X@122@2]
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