慶應義塾大学には複数の図書館がありますが,私が最も快適に感じるのは三田の旧図書館の空間です。若い頃に南ドイツ・ヴュルツブルクの修道院で学生時代を過ごした私は,旧図書館のなかに入ると,外の世界から隔絶された修道院の非日常的な雰囲気に身を浸すことができるのです。私にとって図書館の空間は,現在を飛び越えて一瞬にしてバーチャルな過去へと身を移動させることのできる場なのです。古典文学者であったニーチェは,古典ギリシャの著述家との「超時的」対話を「靈的知性之對話(ガイスターゲシュプレーヒ)」であると述べています。旧図書館の空間にいると感覚が鋭敏になり,私もそのような対話に参加できるような不思議な興奮を感じることがあります。 しかし一方で,研究室での私はコンピュータの前に腰掛け,インターネットのもたらす刺激に何時間も身をまかせています。時々,インターネットを利用しているときの知性の働き具合と,図書館での精神的高揚はいったいどのような関係にあるのか,と考えることがあります。この問題は,おそらくメディアと人間の記憶の関係を歴史的・批判的に扱う一冊の大部な本を書かなければ解決できない,否それでも解答に至らないようなテーマだと思います。ただ,ここで直ぐに言えることは,インターネットの場合,知性は規範(カノン)を求める方向には作動せず,知的情報の洪水の中で,自分が何に「注目」するかという瞬間的な選択を絶えず行うという状況に自分が晒されているということです。 図書館の電子化ということが近年大きなテーマになっています。電子図書館の最初期の代表例は,1971年マイケル・ハートによって創設されたプロジェクト・グーテンベルクです。グーテンベルクは印刷術を普及させたドイツ人ですが,プロジェクト・グーテンベルクを発案したのはアメリカ・イリノイ大学の学生でした。ハートは大学の大型汎用コンピュータへのアクセス権を得て,膨大な資料を処理するためのアイディア製造工場とも言える環境を手にしたのです。 ドイツでは1970年代の終わりから,著名な出版社マックス・ニーマイヤーから作家のコンコルダンスの刊行が始まりました。大型コンピュータを用いた作業でしたが,当時は単語の出現頻度数や出典検索などの初歩的な作業しかできませんでした。近年は複雑系の計算が可能になり,さらに計算速度も飛躍的に速くなり,文体の特徴的な揺れも分析できるようになっています。これまでは文献学と情報処理は対立関係にありましたが,両者が共存することによる新しいテキスト理論が構築される時代になってきました。 インターネットは日々,膨大な量の情報を私たちに送り込んでいます。際限のない情報の氾濫を「洪水」というメタファーで警告したのはニーチェです。ニーチェは歴史の事実(知識)に基礎を置く当時の歴史主義にたいして徹底した批判を展開しました―「歴史の知識が絶えず洪水のように私たちの方へ押し寄せ,私たちにとって関わりのないものが所狭しとせめぎ合い,記憶の扉をすべて開放しても足りない程である」。このような意味の無い過剰な知識の「洪水」の危機に対抗するには,自己形成の力が必要であるとニーチェは力説しています。ドイツ語でBildung(ビルドゥング)という言葉は普通「教養」と訳されますが,この言葉は不十分で,知の的確な方向付けを確実に行うことができる能力のことを表している言葉です。「洪水」に対して「記憶の扉を閉め」,「想起すべきものと忘却すべきものを正確に心得ている記憶」へと能力を高めていくことが,知性に求められているのです。このようなニーチェの指摘は,当時とは比較にならない程,極端に増大した情報の「大洪水」のなか,私たち現代人がどのようにして知的に生き抜くか,を考える上で極めて有効なヒントであると思われます。 私は電子図書館の今後の発展を期待することでは人後に落ちませんが,知性の根本的な力を養成する場として,時空の境界を自由に飛び越えさせてくれる三田の旧図書館のような古色蒼然とした本の空間が絶対に必要であると考えています。
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