三田メディアセンター(慶應義塾図書館)は,慶應義塾大学の三田キャンパスの図書館であると同時に,義塾のメインライブラリーとしての機能を有している。その発足は明確ではないが,近代的図書館としてのスタートは,創立50年記念として計画され明治45(1912)年に開館した旧図書館からといっていいだろう。安政年間に福澤諭吉が私塾をたて,その後明治23(1890)年に大学部が発足し,ハーバード大学等から教員が招かれた。図書の需要も年々増した。そうしたことから単なる図書室ではない大学図書館をつくろうと図書館建設の機運が学内で持ち上がった。それが実ったのが,いま重要文化財として残る赤レンガの旧図書館である。その旧図書館の開館から,あと数年で一世紀を数える。 慶應義塾図書館は,その長い歴史の中で何度か転機を迎えながら,近代的図書館サービスをいちはやく取り入れ,そのときどきに日本の大学図書館の先を行く試みを重ねてきた。いま,義塾150年にあたり,三田では次世代のキャンパス設計が考えられている。これまで歩みの中で培った当館の理念に触れながら,今後の課題と将来計画について考えてみたい。
1 1950年代に新図書館構想があった 昭和33(1958)年,慶應義塾創立100年を迎え,ここ三田キャンパスにおいても戦災による施設の損害の回復と建物の復興がなされた。それまでの歴代図書館長は各人10数年という比較的長い在任期間であったこともあり,それぞれが専門的立場から蔵書の増強を図った。その結果として多くの個人蔵書の寄贈やコレクション購入がなされ,三田では書庫不足が明らかになっていた。 その頃,図書館の狭隘の状況をみてイリノイ大学からの訪問教授フイッシュが新図書館建設を力説し,米財団からの寄附の可能性を示唆したため,急遽学内に新図書館建設委員会が発足した。その委員会においてわずか数ヶ月で作られた新図書館計画は,25年先を見越して200万冊の蔵書,1500の閲覧席を持つ,当時としては画期的なものだった。しかし,米国図書館協会からは,図書館建設計画には,研究者をはじめとする利用者の要求,今後の教育等に配慮して,少なくとも10年を費やすべきとされ実現には結びつかなかった。 こうして新図書館建設計画は夢と消えたが,この年就任した高村象平館長のもと,館外貸出の拡大や休暇期間中の閲覧時間の延長といった学生の自治会要求なども受けて,学生サービスの増強が進められた。また,各専門主題に配慮した蔵書構築,図書館組織の再構築等も推進し,3年後の昭和36(1961)年,旧図書館に第三書庫が増設された。第三書庫は単に書庫機能にとどまらず,その1フロアを閲覧出納カウンターやレファレンス室にあてるほか,開架室を初めて設置し,新刊雑誌も置くなどして,学生サービスにおいて大きく前進が図られた。 そのおり,開架室に設置する図書は,それまでの図書館独自分類から,日本十進分類表(NDC)に基づいて分類替えを行ったうえで配架された。これが慶應義塾での初のNDCの採用だった。それ以降,新たに受け入れる図書はNDCで分類されるようになったが,それ以前に受け入れた図書(注:現在は旧分類図書と称している)の分類替えについては,50万冊という冊数に躊躇して,そのまま維持することを選択した。のちに『慶應義塾図書館史』(参考文献1)のなかで伊東弥之助はその判断を支持している。 こうした動きのなか,1950年代の新図書館構想は,あらたな新図書館計画へとつながり,昭和37(1962)年,改めて答申が出された。しかし,すでに時遅く,学内の建築計画の優先順位は老朽化した研究室棟に替わる新研究室の構想へと移っていた。
2 キャンパスの図書の一括管理を目指して 新研究室棟建設構想のため,昭和40(1965)年,三田研究室建設計画委員会が発足した。そして建替え計画に伴って,研究室資料室の官報や新聞などを図書館に2年間預けたいという委員会からの申出があったのをきっかけに,図書館と研究室の図書の集中整理の方法が模索されはじめた。 当時,三田キャンパスには文・経・法・商の4学部があり,それぞれが学部の図書予算を持ち,所属教員の選定による,各学部,あるいは各専攻の研究室蔵書(図書室)を持っていた。実はすでに昭和30年代から,図書館と研究室(学部)は資料の重複を避けるような調整を始めており,前述の新図書館計画を経て,集中整理あるいは集中管理へ少しずつ傾いていきつつあったが,ここでようやく転機を迎えたわけである。 新研究室棟と図書館の間に連絡通路の役割をする橋を付けて構造上一体化を図り,新研究室棟の図書館に近い側に研究室資料室を配置すると同時に,収書や整理の事務室を配置する計画が進められた。こうした研究室と図書館の運営の効率化を図る,研究・教育情報センターへの道を切り開いたのは佐藤朔館長である。文学部から初の図書館長となった佐藤館長は,就任直後から広報に力を入れた。館報『八角塔』を創刊して学内外に現状を訴え,図書館の建物が重要文化財に指定されると絵葉書を作る,また定期的に展示会を開くなどして,図書館のPRに努めた。それまで学部4年生以上にのみ認められていた図書の館外貸出を,三田キャンパスの学生全員に広げたのもこの頃である。 昭和45(1970)年4月,新研究室棟の利用が開始されると同時に,7年の歳月をかけ,義塾の総力をあげて作成した研究・教育情報センター計画に基づいて,新たな図書館組織である三田情報センターが発足した。図書館の50数万冊,研究室の20万冊のコレクションが合体したわけである。研究室の名称は残ったが,その蔵書の整理,運用,保管が情報センターに移管された。
3 三田情報センターの改革 こうして他大学に例をみないキャンパスの図書資料の一括管理を実現した三田情報センターでは,発足当初から研究室図書資料と図書館図書資料の購入管理を円滑にするためにコンピュータによる予算管理を導入,国立国会図書館の印刷カードも取り入れて,図書の整理の効率化を図るなど,その運用,業務に関しても改革を進めた。 研究室1階に選書室を新設して,定期的に見計らい図書を並べて,教員に声をかけた。研究室図書の選定だけでなく,図書館への推薦を呼びかけ,また研究者個人図書の購入の便を図り,教員との連携を深めた。図書館予算部分でも収書計画を策定し,高額資料や貴重書も含めた積極的な資料収集を開始した。 収書,整理業務をテクニカルサービス部として統合したのもこの時である。新たに作成された収書,整理,逐次刊行物の3編のテクニカルサービス・マニュアルには,当時,全国の図書館から多くの閲覧の要望が寄せられた。他方,図書館と研究室に分かれていた閲覧,雑誌,レファレンスサービスの3つの担当をパブリックサービス部にまとめて,利用者サービスの向上を図った。限られた図書予算で蔵書発展計画を考え,蔵書の適正規模を議論し,除籍基準も作り上げていった。 そうした業務再編を進められたのには,館長をはじめとする教員の力はもちろんだが,図書館員の問題意識と専門知識も欠くことができなかった。これを機に,今後の図書館を考える場合,専門性の高い図書館員の養成が必須として,文学部図書館情報学科,図書館短期大学と連携した積極的な図書館司書採用も開始され,毎年,確実な新人採用がなされるようになった。資料保存への意識も高まってきて,慶應義塾の刊行物のマイクロフィルム化が開始されたのもこの時代である。 三田情報センター発足の翌年には,それまでの12,000冊の開架室では足りないと,一挙に18万冊の開架書庫を作るに至った。私はそれ以前の図書館の状況を知らないが,大学2年生に進級して,出納中心の日吉から三田に移ってこの開架書庫に接したときの嬉しさはいまでもよく覚えている。2階にレファレンス・ルームを,3階に雑誌室を配置し,学生サービスは大きな前進を果たした。こうして近代的図書館サービスへ向け,さまざまな試みがなされてきたが,築70年近い図書館の規模的,機能的制約が年々明らかになってきた。そこで研究室棟を建てる際に織り込まれていた研究室に隣接した北側に新しい図書館を建てるという計画が改めて動き出したのである。
4 念願の新図書館開館 昭和52(1977)年,任期終了間近の久野洋塾長に新図書館計画が答申された。これは情報センターが新図書館建設を必至であるとして訴えたことがきっかけで,三田キャンパスの4学部長連名の要望書が前年にまとまったことからスタートしている。その後,石川忠雄塾長のもと,本格的に建設計画が進められ,紆余曲折ありながら,独立した図書館棟である現在の図書館の基本設計が完了したのは,昭和54(1979)年のことだった。この間,三田キャンパスでは多くの教員がこの計画に参画し,長時間に及ぶ会議が回を重ねられた。「図書館は大学の心臓」とよくいわれる。新しい時代を担う「大学の心臓」である図書館を創ろうという思いを図書館員と教員が共有して歩んだ経緯については,中島紘一が書いている。(参考文献2) こうして閲覧席1100席,収容能力115万冊の新館は,昭和57(1982)年4月にオープンした。当初の計画の研究室棟の北側ではなく,図書館旧館と向かいあって建っていた第二校舎(五号館)を取り壊して,正門からのスロープを東側にずらした場所に新館は竣工した。独立した大学図書館棟としては,当時,群を抜いた広さを誇っていた。引越し作業は,春休み期間に総出で行った。旧館から新館への引越しだけでなく,研究室棟にあった資料室や事務室の撤去に伴って,継続して使用することになった図書館旧館の書庫もあわせた蔵書の再配置計画が入念になされた。ここにおいて,研究室蔵書と図書館蔵書が一本のカード目録で検索可能となり,一括管理が完成したといえる。 雑誌資料については,3階に図書館雑誌,4階は研究室雑誌を配架したが,すでに終刊している雑誌や古い年代のバックナンバーについては,地下書庫に図書館雑誌と研究室雑誌をアルファベット順に混配するという大英断を下した。雑誌の総タイトル数は1万点を超え,巨大な雑誌コレクションがまとまったことになる。4階の研究室雑誌は許可制ではあったものの,学生にも公開された。研究室資料は研究者のものであり,学生に自由に使わせるべきではない,とする声もまだあったとはいえ,情報センター発足当初から思い描いてきた道が明確に実現したときだった。館内の随所に彫刻や絵画,古地図などを配して,大学の思索の場としての図書館にふさわしい雰囲気を作ることにも配慮された新館は,学内だけでなく,学外からも期待の声が寄せられた。 この新図書館建設に力を注ぎ,開館を機に所長を大江晁教授に譲った高鳥正夫教授は,新図書館で実現を図った機能を4つ上げている。(参考文献3) 第1は利用者の図書利用の便宜促進である。これは,地下1,2階の2フロアに及ぶ開架書庫と2階の話題の小説や旅行ガイドなども含めた教養図書コレクション,さらには3階の雑誌資料を開架として学生の利用の便を図ったことや,開架書庫内にコピー機を配置したことで実現している。第2は雑誌利用の拡大,これについては前述のとおりである。第3はレファレンス・サービスの充実で,2フロアに3万冊を優に超す参考図書を備えた。第4が図書館業務の機械化に備えることだった。貸出業務の機械化や情報検索サービスの実現がもうすぐそこまできていたといえる(注:貸出業務の機械化は1985年11月に実現,代行検索によるオンライン情報検索サービスは1989年4月に導入した)。 また,新たな機能として選書課が設置された。見計らい図書を常時展示し,学部の図書委員会や図書館の高額資料の選定委員会を開くための会議室を隣りに設けた選書課事務室は,教員との情報交換の場としても機能した。 佐藤朔館長が始めた資料展示を継続,具現化するため,常設の展示ケースが二箇所に設けられたことにも触れておこう。
5 新図書館開館から26年を経て 義塾の英知を集めて,竣工にこぎつけた図書館の開館から今年で丸26年経過した。相当なゆとりをもって用意された書庫も満杯となり,開館15年目には山中湖畔に,その後東横線沿線の白楽に,保存書庫が用意され,三田の蔵書もかなりの冊数が双方の書庫へ移された。四半世紀という時間の経過は世界的な技術革新等に伴い,図書館にも大きな変化をもたらした。
(1)蔵書構築と書庫問題 人文・社会科学の専門図書館であり,原則として図書資料は永久保存とする方針をとる当館には常に書庫の狭隘化問題がつきまとう。近年,電子媒体が増加し,紙媒体の図書資料の増加スピードは多少押さえられたとはいえ,年間の増加冊数は約5万冊を数える。新図書館開館当時,蔵書数は112万冊であったのに対して,新館・旧館をあわせた収容能力が175万冊であったため,当時は,書庫の狭隘化問題から開放されたと感じたものだが,それから26年経た現在,蔵書数は240万冊を越えた。ここ15年ほどは,図書館と研究室図書との重複基準をより厳密にし,調整を重ねてきたが,その後新設された南館図書室や白楽・山中湖の保存書庫を利用してもそう遠くない将来に収容能力を完全に越えてしまうのはまちがいない。 こうした余裕のない書庫の運用のため,新館当初に考えられた蔵書配置も維持できていない。ここに何段,何連空いているからそれに見合う図書の固まりを移動する,といった数合わせの様相も呈していて,利用者にはわかりにくい状況となっている。 いま当館には,星文庫(星亨),幸田文庫(幸田成友)等の個人の旧蔵書コレクションが多々存在している。このような文庫はそれぞれが主題的に特色を持ち,貴重な資料群となって,当館の蔵書に厚みをもたらしている。最近も寄贈の申出をいただくが,既存の図書館蔵書との重複を無視して受け入れることも難しくなり,なかなかまとまったコレクションとして蔵書に位置づけにくい状況となっている。 今年度末には日吉に新しい保存書庫が出現する。すでに存在する保存書庫も含めて,なにをどう配置するか,蔵書構築とともに考え直すときが来たといえる。いままでのところ,新聞の原版等,他の媒体で所蔵のあるもの,また刊行年で切った洋雑誌のバックナンバーや図書館図書を保存書庫へ移しているが,利用者からの要望に応じて,逆に,毎年百数十冊を保存書庫から三田の図書館へ戻すことも行っている。1冊1冊,きめ細かく利用の状況を判断することをせず,刊行年などで一気に移動しているため,「戻す」という作業が生じるのはやむをえないことであろう。 また,新館開館以来,利用者の便宜を考え,開架書庫を拡充する方向で努力してきた。その結果,貴重書,準貴重書及びごくわずかな特殊コレクションを除いては,雑誌のバックナンバーも含め,膨大な開架コレクションができあがっている。ところが,新館開館後の25年の蔵書の傷みはひどく,図書館旧館時代の70年間の傷みよりも急激であることに気付く。開架で自由に手にとることができる環境で,閲覧,貸出が増加していることに加え,複写機の発達と安価なコピー代もこの状況に拍車をかけているといえよう。 次の時代に知的資産である蔵書を残し伝えるためにも,改めて資料を選別して,閉架書庫におさめる,あるいはデジタル化等媒体変換しての保存を考えることが必要と思われる。
(2)グーテンベルク聖書と蔵書のデジタル化,そしてグーグルプロジェクト 1996年,慶應義塾は世界に48部しか残存していないグーテンベルク聖書を購入した。活版印刷の最初の書物であるグーテンベルク42行聖書を得て,学内ではHUMIプロジェクトが発足,聖書の高精細なデジタル化に取り組んだ。さらに,HUMIでは高度なデジタル技術を用いて,新しい視点で研究を進めていった。 慶應義塾図書館では,HUMIの活動をきっかけとして,貴重書のデジタル化を進め,教員やメディアセンター本部と共同で,図書館ウェブサイトに2007年,デジタルギャラリーを公開するに至った。そのメニューの一つである創立者福澤諭吉の著作を集めた『デジタルで読む福澤諭吉』は平成19年度の私立大学図書館協会賞を受賞している。デジタル技術は,一図書館の蔵書をインターネットにのせて時間と空間の壁を越えて,広く世界に公開することを可能とした。現物保存にもつながり,図書館が長年悩んでいた保存と利用という相反する問題の解決の糸口となったともいえる。 そうした他大学に先行する図書館での蔵書のデジタル化活動が,また一つステップを登ることとなった。それは2007年7月に開始したグーグル社との連携である。保存と利用の観点からしてもデジタル化の意義は大きいが,デジタル化をさらに進めるには,一時行われていたマイクロ化以上に費用がかかることが大きなネックとなっていた。大規模なデジタル化は,一図書館,あるいは一大学ではコストの面だけをみても現実的ではなかった。グーグル社の提唱するブック検索プロジェクトに加わることによってこうしたコストの問題に一応の決着をみることができたといえる。慶應義塾図書館の蔵書をグーグル社の手によってデジタル化し,インターネットで広く世界に発信することが可能となったわけである。蔵書のうち和漢書約12万冊のデジタル化を目標に,慶應義塾のプロジェクトはスタートした。現在は次年度行われるデジタル化作業に向けて,図書館ではその前作業,たとえば著作権の確認,図書資料の状態確認と修理,装備,1冊ごとの物理単位の簡易書誌データや所蔵データの作成にチームを組んであたっている。こうした事前作業にもかなり膨大なコストはかかるが,デジタル化のすべての工程を自館で企画するのとは雲泥の差であるのは間違いない。
6 慶應義塾図書館のこれから―特殊コレクションとアーカイブ 前述のように,グーグル社のプロジェクト以前にデジタル化の対象となっていたのは和・洋の貴重書や,福澤諭吉の著作の初期版本といった,いわゆる図書館の特殊,特別なコレクションである。 慶應義塾図書館には,貴重書,個人文庫,特殊な主題文庫,書簡,古文書,古記録,古写真,マル秘資料等,取扱いに注意を要する特殊な資料,コレクションが豊富に存在する。これら,そしてそれに加えて,長い歴史のなかで特に漏らさぬように選書を続けてきた,特徴ある網羅的な資料群が当館のアイデンティティをなすコレクションであり,財産であると考える。 特に前者は,一次資料としての希少性,あるいはその特徴ある群としての希少性を持っている。こうしたアーカイブはその大学の,あるいは図書館の組織文化を体現し,継承し発展させていくものともいえるのではないだろうか。 電子媒体の増加とインターネットの広がり等により,「大学図書館は,もはや教員や学生の情報要求をコレクションの拡大という従来の方法では満たすことができない」(参考文献4)といわれて久しい。図書館という場所に依存したコレクションという概念も陳腐化し,図書館に実際に足を運ばなくても用が足りるという非来館型の利用が増えているのも事実だろう。 実は,筆者は1996年から10年間図書館を離れ,大学の法人業務に就いていた。離れていた10年間で図書館は驚くべき変貌を遂げていた。図書館は,というよりはむしろ図書館サービスは,といったほうがよいかもしれない。10年留守にしていた者が僭越にも感想を述べると,技術と環境の変化に対応することに比重がかかり,本来の当館の特徴ある文化,コレクションへの気配りや管理が置き去りにされていると感じた。心ある図書館員は,そうしたコレクションになかなか手が回らないことを気にはかけながらも,そこへ手を伸ばすことが現実的にできにくかったのだろう。だが,慶應義塾図書館が慶應義塾図書館として存在意義を持つには,まさにこうしたコレクションの整理,活用がキーとなると考える。 昨今,アーカイブ,アーカイブスという言葉が多用されるようになったが,その言葉の定義はまだゆれている。デジタル化したコレクションをデジタル・アーカイブと呼ぶこともあれば,前述したような○○文庫,文書館といった一次資料をそう呼ぶこともある。その一つに大学史資料室という意味で大学アーカイブという言い方も存在する。 慶應義塾には大学アーカイブとして,塾史編纂室から発展した福澤研究センターがある。義塾や福澤諭吉にかかわる歴史資料の収集,整理,保管を任としているが,図書館はこの塾史編纂室の設置以前から存在したため,当時,当館に収集された義塾関連資料は多く,慶應義塾図書館は大学アーカイブという機能も持っている。創立150年を迎え,現在学内で次々にパンフレットやDMの類が刊行されているが,こうした資料類を福澤研究センターが収集すべきなのか,図書館が集めるべきなのか,決まってはいない。 さらに,近年,日本の大学でも欧米の大学同様,ユニバーシティ・ミュージアムの新設事例が増えている。慶應義塾においてもここ数年,ミュージアム構想が囁かれるようになった。「図書館,アーカイブス,博物館は情報収集の器,知と情報の府たるインテリジェンスの場」(参考文献5)として共通の目的,存在意義を有する。慶應義塾でも現状を問いただして学内の知の連環を作り上げ,明日に向けての歩みを進める必要があるのだろう。
7 三田キャンパスの再構築のなかで 創立150年記念の建築事業として,来年から三田キャンパス正門前の南校舎の建替え工事が始まる。その竣工を機に,図書館からグループ学習室,PCエリアを移転する計画がある。図書館の玄関を入ると,竣工当時はずらっと目録ボックスが並んでいたが,その後,目録がOPACに変わり,ボックスを撤去された跡地にPCエリアを設けて,すでに10年以上が経過している。当時は,学生のためにインターネット利用のできるPCを多数設置する場所の確保が学内で課題となっていた頃で,目録ボックスが撤去されて出現したスペースがPCエリアに転用されたわけである。しかしその後,学内のインフラも整備され,いまや図書館にある必然性がなくなったといえる。 PCエリアやゼミの準備などで賑わうグループ学習室がなくなることで,本来の静謐でアカデミックな図書館空間を少しでも取り戻せればと考える。学生に貴重なコレクションに触れてもらう機会を増やすためにも,展示スペースをさらに確保する,あるいは,開館当時設けられた学生のための,永久保存の蔵書とは一線を画した「教養図書コレクション」を新たに形を変えて復活させるなど,場としての図書館を際立たせることも考えたい。 図書館を取り巻く環境変化は著しい。大学の経営改革が声高にいわれるようになって久しい。図書予算,図書館人件費の削減が行われ,図書館員の流出が起きるなか,インターネットの功罪として安易な図書館レファレンス不要論も聞こえる。「大学の心臓」といわれた図書館はどこに行ったのだろう。 慶應義塾図書館には,長い歴史のなかで構築してきた誇りとすべき蔵書がある。これまでの,またグーグル社でのデジタル化により,膨大な蔵書のなかに埋もれて忘れられている図書に再び光を当て,命を吹き込むことができるようになった。新たな知の構築と発信により,一大学を超えた研究・教育に寄与することができるところまできた。 歴代館長をはじめとする多くの図書館員,また三田キャンパスに所属する教員の手により収集された蔵書は,戦時においても疎開するなどして,失われずに伝えられてきた。研究・教育を担う図書館のスペース,施設確保にも多くの人の力が結集されてきた。いま,私たち図書館員は,多くの転機を乗り越えてきた過去の歴史も心に留め,大学の基幹の重要な役割を担っている認識を自ら再確認することが肝要である。塀のなかに閉じこもらず,学内の知の連環を図り,「大学を支える知の府」としての活動を推し進めたい。
参考文献
1)慶應義塾大学三田情報センター編.慶應義塾図書館史東京慶應義塾大学三田情報センター 1972,p.348.
2)中島紘一.“新図書館のプランニング―準備段階から実施設計まで”.KULIC.no.12.1979,p.11-18.
3)“これからの大学図書館(座談会)”.三田評論.No.823.1982,p.4-20.
4)B.L.ホーキンス,P.バッティン.“舞台の設定―発展か革命か,さもなければ崩壊か”.デジタル時代の大学と図書館.B.L.ホーキンス,P.バッティン編.東京,玉川大学出版部,2002,p.17-26.
5)大濱徹也.“アーカイブズ・図書館・博物館―心理がわれらを自由にする―”.アーカイブズへの眼:記録の管理と保存の哲学.東京,刀水書房,2007,p.178-196.
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