1 はじめに 2008年11月8日,慶應義塾は創立150年を迎え,日吉キャンパスにおいて盛大に記念式典が開催される。その日吉キャンパスの歴史は74年前に遡る。1930年,慶應義塾は,東急電鉄から寄贈を受けた土地と,募金による自己取得分を合わせ12万坪の用地を日吉台に確保し,1934年に大学予科の新キャンパスを設置した。そして,今でもキャンパスに聳える白亜のギリシャ建築の第2校舎内に1935年に設置された「予科図書室」が日吉メディアセンターのルーツであると言えよう。本稿では,それを出発点として,少ない資料を紐解きながら,このキャンパスにおける学習図書館の営みの概略を振り返りつつ,今後の課題についても明らかにしてみたい。
2 「予科図書室」と「慶應義塾図書館分室」 「予科図書室」は,予科生徒が,所属科を問わずに利用できる学習図書館であったようである。和洋単行書に加え,多くの参考図書を所蔵し,冬はスチーム暖房が効き,夏はコンクリートの分厚い壁がひんやりとした空気を溜め込んで,快適で静かな場所として人気があったとある。これだけを見る限り,予科の塾生にとっては,当時としては格段に居心地の良い施設であったように思われる。しかし,時局はまさに日本が15年戦争の道を歩み始めた時,塾内に日吉キャンパスに大きな図書館を作るという気運はあったものの,具体化はしなかった。以降日吉キャンパスは,戦時中は日本軍に利用され,敗戦後は米軍に接収されるという状況が続く。米軍による接収は1949年に終了し,翌年にかけて再開の準備が行われ,1950年の5月,登戸に移転していた蔵書のうちの和書を引き取り,元の図書室に家具・調度品を新調し,折りしも施行された「新制大学法」の下,教養課程の図書室として活動を再開した。再開後の図書室は,三田の中央館とは対照的な明るく開かれた雰囲気を目指し,家具の配色や閲覧台の高さを工夫し,教養課程の「学習図書室」としての独自性を表現することを目指した。組織的には,1950年5月,中央図書館制度を目指す新図書館規程の下で「慶應義塾図書館日吉分室」となり,三田の中央図書館と連携した活動体制に入った。一方,1951年には「日吉研究室」が設置され,旧予科図書室蔵書のうちの洋書は,研究室が管理することになり,現在まで脈々と続く図書館蔵書と研究室蔵書の二本立て構造の基本が定まった。そうした中で,慶應義塾大学は,1955年に医学部進学課程を設置し,1957年には,商学部および工学部計測工学科の設置により学生数が急増した。その結果,日吉分室は,閲覧設備が不足し,同時に蔵書も短期間に急増し,図書館として何某かの対応が必要になっていた。
3 「藤山記念日吉図書館」 このような機運を受けて,野村兼太郎図書館長は,1958年の創立100年記念事業に向け,「日吉図書館新築に対する要望書」を1956年に提出した。そうした折,1944年に藤山愛一郎氏より寄贈されたが,施設としての利用価値を失っていた白金の「慶應義塾藤山工業図書館」を明治生命に譲渡する話が持ち上がり,創立100年記念事業の一環として,その売却で得た資金で日吉に図書館建設が行われることになった。工事着工は1958年1月,その年の9月に開館し,同時に図書館規定の改定により分館に昇格し,寄贈者の篤志を記念して,「慶應義塾藤山記念日吉図書館」と命名された。建物は,半地階・地上2階鉄筋コンクリート独立棟で,延べ床面積1685.65m2,収蔵可能冊数10万冊,閲覧席302席という規模であった。利用者用のクローク室を設け,レファレンス室のみ自由接架という運用であった。館長は本来一般書架も自由接架にしたいと要望していたが,いずれにせよ,「学習図書館」として学生にとって使い易い図書館を目指す館長の思想が設計や運用に反映された。以降,学生数の増加に対応するため,様々なスペース配分の工夫が払われた。運用に関しては,試験期間には年間4日の日曜開館を実施していたという記録もある。
4 「日吉情報センター」 1970年4月,「慶應義塾図書館」と,「三田研究室」の蔵書の収集,整理,提供機能を包含し,「三田情報センター」という新しい組織が誕生したが,日吉キャンパスにおいては,1971年に「日吉情報センター準備委員会」が設置され,三田に習った新組織のあり方について検討された。その結果,事務組織として,図書館と研究室図書資料部門が統合され,従来の図書館蔵書の他,研究室地下並びにキャンパスの特別研究室に分散する研究室蔵書の管理,さらには日吉専任教員に対するサービスが業務に加わり,1972年4月に「日吉情報センター」が誕生した。これを期して,図書館の一般書架を安全接架式の準開架システムとし,学生のための「学習図書館」としての一層のサービス向上を目指した。また研究室閲覧目録に藤山記念図書館の基本記入を繰り込んで,集中管理のメリットを具現化すべく合同目録の編成を行ない,研究者に向けての検索性の向上を目指した。以降とりわけ学生サービスの進展を目指し,コイン複写機の導入(1973),雑誌タイトル配列(1977),書庫全面開架およびスペース全面見直し(1978),BDSの導入(1980),個人キャレル設置(1980)など,様々な方策を講じてゆく。また,書庫の狭隘化に対応するために,1979年には,地下書庫に電動集密書架を導入して購入年代別の配架を実施した。更に情報センターとしての汎用大型機を利用した全塾の業務機械化が進行する一方で,1982年には,小さなオフィスコンピュータを利用したメモレックス閲覧管理システムを全塾に先駆けて導入し,年間貸出冊数が,前年度対比で37%も増えるという画期的な成果を上げ,学生サービスは格段に向上した。そして,こうした流れは,1987年の全塾CIRSYSトータルシステムへの移行につながってゆく。このように,様々なサービス改善の方策が講じられてはいたが,いかんせん施設的な制約はきわめて大きく,書庫スペースの面でもサービス展開の面でも,現有環境の限界が見え始めていた。
5 「日吉図書館」 1979年7月,日吉における教育研究の諸条件,および施設等の問題について,学内各方面の意見を聞きながら検討を加え,以降の施策立案の参考とするための,「日吉問題検討委員会」が発足し,この場での討議を発端とし,以降2年余の検討期間を経て,日吉キャンパスに新図書館を建設することが決定された。それは日吉研究室に隣接した土地に,研究室蔵書の保管機能も併せ持つ蔵書40万冊規模の「学習図書館」を建設するという案であり,事務棟との複合施設という形態で,創立125年の事業として建設されることになった。 待望の日吉図書館は,1985年4月にオープンした。最良の立地条件に恵まれたこの図書館には,開館の日から多くの利用者が来館し,定期試験の時期など,開館を待つ利用者の列が日吉駅まで続いた。ちなみに,初年度の年間入館者数は634,387名で,前年度対比43%増,貸出冊数は86,402冊で前年度対比29%増であった。この図書館とこれまでの図書館との大きな違いは,学習図書館機能と研究室図書館機能を一つの建物に集めたことであり,これにより日吉キャンパスに於ける総合図書館機能が生まれることが期待された。学習と研究の2つの機能はフロアにより分担され,メインフロアを貸出・レファレンスを中心に共有し,2階・3階を学習用フロア,4階を人文社会科学系を中心とした研究用フロアとするものであった。「学習図書館」という概念は,具体的には,学部1・2年生によって利用される教養課程の図書館ととらえられるが,そう機能するためには,蔵書面でもサービス面でもそれに相応しい特色を持つ必要があった。蔵書構築面については後述するが,サービス面では,学習用のメインコレクションへの導入となる,読みやすい「バルコニー・コレクション」やビデオやCDという新出のメディアのコーナーを新設したことが特徴的であった。また地下「AVホール」の設置と,それを利用した様々な企画の実施など,学生の図書館利用への呼び水になる仕掛けを沢山用意し,施設の開放的で明るい雰囲気共々,とにかく図書館が活発に利用されることを最優先に考えた豊富なサービスメニューを提供した。そうした活動の延長線上で,1986年には,当時で言う「利用者教育」を推進するために,「企画広報ワーキンググループ」が組織され,図書館ツアーや,情報活用セミナーの企画・実施なども全スタッフ参加型で行うようになった,同年開始された法学部法律学科の授業「法学情報処理」への派遣依頼を受けて,ライブラリアンが授業の中で図書館サービスや施設の説明を開始したのはこの年からである。こうした初期における取り組みは,実は,全塾レファレンス担当者間での利用者教育重視の機運を受けて新館開館前から周到に準備されていたものであったが,その後の日吉メディアセンター(1993年に「日吉情報センター」から改称)の活動を特徴づける「情報リテラシープログラム」の端緒となった活動だと位置付けられよう。
6 学習図書館の蔵書構築 「日吉図書館」の収容冊数は40万冊であったが,当初,そのうちの20万冊が学習用図書,20万冊が研究用図書と計画された。すなわち,適正規模(20万冊)の常に良く利用される資料を使いやすく手近に備えることが「学習図書館」の大切な機能であるとされた。具体的には,講義要綱や教科書一覧に沿って,毎年の学習用の基本図書を漏れなく収集することや,学習用として不可欠な過去の出版物を調査収集するのみならず,利用が少なくなった蔵書を除籍して,常に蔵書をリフレッシュすることが目論まれ,そのための「蔵書編成室」も用意された。こうした考え方は,バックヤードに三田の「慶應義塾図書館」を持つ図書館システムの強みを最大限に活用したものであり,三田メディアセンターの保存機能に全面的に依存している。以来OPACの普及や全塾資料配送システムの完備という条件整備も相俟って,この初期の考え方は,「白楽サテライトライブラリー」や「山中資料センター」というキャンパス外保存書庫の出現によって,学習用蔵書の総数が多少上方修正されたとは言え,現在でも日吉メディアセンターの基本的な蔵書構築方針となっている。
7 情報リテラシープログラム 日吉メディアセンターは,1996年に「中・長期ビジョン」を策定したが,この中で新たな概念である「情報リテラシーを全学生に浸透させること」が大きく目標として掲げられた。そして「情報リテラシー委員会」が発足し,理論を踏まえつつ積極的な活動が開始される。その中で,従来からの図書館独自企画のプログラムに加えて,1997年からは学部カリキュラムと連携した活動が開始された。理工学部の「情報リテラシー入門」に始まり,1998年には法学部政治学科,商学部,2000年には経済学部,2001年には法学部法律学科,2003年には文学部と連携の輪は広がった。これらは皆,学部の必須または選択授業のコマでライブラリアンが出張講義をする形式であるが,この積み重ねの成果は,2002年に「情報リテラシー入門」と題する単行本にまとめられ公刊されるに至った。こうして,様々な試行錯誤を経てプログラムは進化したが,それらは学部主導のカリキュラムという制約もあり,「情報リテラシー」という概念の全てを網羅的にプログラムに注入するには至らなかった。そこで,インターネットの発展を睨みつつ,より包括的な道具として開発されたのが,Webチュートリアル手法によるネット上の情報リテラシー教育プログラム「KITIE」(2004)である。コンテンツとして,従来からの情報収集手法に加え,評価,活用,デモ手法,倫理までを含めたことや,インターアクティヴな操作性が特色である。そして翌2005年には,動画で作成された補助教材とでも言うべき「PATH」も公開された。
8 そしてこれから―課題 2002年中央教育審議会は,「新しい時代における教養教育のあり方」(答申)を文部科学大臣に提出した。これは,伝統的な学問体系が崩れ去った後,「教養」という概念を再定義すると同時に,あらためてそれを共通理解としてゆくための動きの一つである。この答申においては,新たに構築される教養教育は,専門教育への単なる入門教育ではなく,共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得であるとしている。これはまさに,近年の日吉メディアセンターが実施している情報リテラシー教育の営みが,時代を先取りしていたことの証明である。現在,独自企画,および学期始めの授業に加え,2002年に開設された教養研究センターが主催する各種プログラムにメディアセンターの人材が活用される場面も多くなり,同時に教員諸氏との連携も始まり,「アカデミックスキルズ」というキャンパスにおける新たな枠組で,「教養」として定着しつつあることは誠に喜ばしい。こうした流れを受けて,今後は学習の進展と有機的に連動したプログラムの開発にも視野を広げる必要があるように思うが,その実現には学部との更なる内容的連携が必要となって来よう。 一方,伝統的な図書館に立ち返ると,様々なメディアの出現で薄れがちになった「読書」という行為にもう一度焦点を当て,それを推進してゆくこともこのキャンパスのあり方であろう。踏み石的なコレクションの設置や,イベント企画など,これまでも図書館や蔵書に学生を引き付ける方策は講じてきたが,それを更に推し進めて,「図書」,更には「読書」の抗し難い魅力に気づかせることも,長い人生を送る上での不可欠な「教養」の一部となるのではなかろうか。我々の読書推進のスタンスは,まさにそのようなものである。そして,読書推進の結果利用される蔵書の構築については,従来からの学習図書館の考え方を踏襲し,学習コレクションについては,取り分け三田の蔵書を意識しつつ,利用状況を鑑みて,最適な学習用ワーキングコレクションの維持に務めることは何時でも最重要なことである。 他方,研究支援としては,「21世紀日吉キャンパス基本計画」の成果として,2004年に新しい研究棟「来往舎」が完成し,その3階に「来往舎レファレンスライブラリー」が設置され,メディアセンターの管理下になった。これは1985年の新館開館以来,その4階で受動的に続けられてきた研究支援機能の展開を意味するものであった。そして2008年9月には,新たに経営管理研究科,システムデザイン・マネジメント研究科,メディアデザイン研究科を日吉キャンパスに迎え,それらの研究活動を支援する機能として協生館に新図書室が誕生し,その管理運営をメディアセンターが担当することになった。加えて2009年4月には,現在建設中の収容冊数約12万冊の全塾保存書庫が完成し,日吉メディアセンターによって管理運営される予定である。よって,これまで単発的に計画,設置されてきた経緯のある,新図書館4階,来往舎3階,協生館4階,そして新たな全塾保存書庫といった研究者用施設を,中・長期的な視野を持って有機的に再定義して,最適な機能分担を図る必要が出て来るであろう。 このように,学習図書館としての緩やかな進展がある一方,研究支援については,ここに至って質的にも量的にも,従来のような受動的な対応では事足りない状況が生まれつつあることが明らかである。それゆえ我々は,守備範囲を主体的に学習支援と研究支援に定め,その車の両輪のバランスを巧みに操りつつサービスを展開する必要があろう。そして,行く手の視野を明確に確保して,日吉キャンパスにおける研究教育の将来を見据えたサービスに専心する使命を共有しなくてはならないであろう。
参考文献
1)慶應義塾編.慶應義塾百年史下巻.慶應義塾,1968,824p.
2)慶應義塾大学三田情報センター編.慶應義塾図書館史.慶應義塾大学三田情報センター,1972,384p.
3)柳葉好冶編.塾監局小史.慶應義塾職員会,1960,330p.
4)塾監局小史編集委員会編.塾監局小史II.慶應義塾塾監局,1987,448p.
5)天野善雄.“日吉情報センター(藤山記念日吉図書館)の改装計画”.KULIC.no.11.1978,p.23-28.
6)柳屋良博.“日吉キャンパスにおける図書館のあり方について”.KULIC.no.15.1981,p.3-8.
7)柳屋良博.“日吉新図書館計画の経緯”.KULIC.no.15.1981,p.22-24.
8)小川治之.“日吉図書館における新サービス”.KULIC.no.17.1983,p.17-22.
9)平尾行蔵ほか.“大規模大学1-2年生に対する情報リテラシー教育とメディアセンター”.大学図書館研究.No.54.1998,p.33-42.
10)市古みどり,上岡真紀子.“図書館員による情報リテラシー教育―現在・過去・未来”.現代の図書館.vol.45.no.4.2007,p.226-233.
11)中央教育審議会.新しい時代における教養教育のあり方について(答申).中央教育審議会,2002.2.21.
12)慶應義塾大学教養研究センター.“2006年度活動報告書”.教養研究センター,2007,54p.
|