私は湘南藤沢キャンパスの近くのローカルヒストリーでもある,台湾少年工に関するドキュメンタリーの制作に,台湾の郭亮吟監督と4年の歳月をかけて取り組んできました。台湾少年工とは第二次世界大戦中,神奈川県大和市にあった海軍工廠に台湾から派遣された約八千人の子供たちのことで,彼らは日本各地の軍需工場で主に軍用機の生産に従事し,戦後も台湾,日本,中国といった異なる社会で政治に翻弄されながら苦難の人生を送ってきました。 日本政府のために働いた少年たちが戻った台湾では中国語を国語とする国民党政府の時代が始まり,またのちに日本を経由して渡った中国は文革に向かって急進化しつつありました。アイデンティティを揺さぶられる経験をした人たちには,新しい社会(そして自由な発言が許されない社会)に適応するために,過去の忘却を強いられることはよくあります。高齢に達した元台湾少年工にこれまで抑圧され,忘れられてきた過去の記憶を記録することは意義あることだと我々は考えたのでした。 さて,過去の記憶を記録するためにはどうすればいいのでしょうか。私たちはテレビや教科書で扱われるような歴史的な事件にはあまり興味はありませんでした。個人的な出来事や体験,個人的(私的)な歴史に注目したかったのです。では個人的(私的)とは何でしょうか。過去は無数の断片的な記憶から成り立っています。両親,亡くなった兄弟,意地の悪い友達,喧嘩,日本の女の子たち,風邪,お風呂,飼っていた犬,食事,海の風景などなど。一体どこから始め,何を残していけばいいのでしょうか。 私たちは「当時の手紙や写真を見せていただけませんか」と尋ねることから始めました。そうすると埃をかぶって,少し黴の匂いのする古い箱を取り出してきて,大切にしまってある写真や合格証,卒業文集などを見せてくれました。この手紙は誰からもらったのか,この写真はどこで撮ったのか,隣に写っているかわいい男の子は誰か,そもそもなぜこの文書や写真を大切に持っていたのか,さまざまな問いかけがすぐに心の中に浮かんできたのでした。 そうした手紙,書類や写真は極めて個人的なものでありながら,同時に公的な歴史の存在を感じ取ることができました。空爆で怪我をした少年が名古屋の病院から兄に出した手紙には郵便局の日付入りのスタンプがあり,検閲を通るため伏字が使われている箇所があります。また,デジタルカメラで簡単に撮影できる現在と異なり,写真機が一般に普及していなかった当時,子供たちが写真を撮るには,写真屋を呼ぶか,高価な写真機を用意する必要があり,その時には友人を集め,場所やポーズを考えたはずです。撮影・現像の過程やそこに写った背景には公的な歴史が姿を見せています。そうした文書や写真を選んで保管していたのは,この世界に自らが存在していたことを残す願いがあったのでしょう。もしこうした文書や写真が失われる時,私的なものと絡み合って存在していた公的な歴史の一部も失われるかもしれません。公的な文書がほとんど残されていない台湾少年工の歴史のような場合には。 最初の上映会には関係者を招待したのですが,上映前,自分の写真が使われたポスターを見つけて,手で触っている老人がいました。「多くの写真や文書は白色テロの時期にほとんど失ってしまった。それでもわずかに残しておいた写真のおかげで私たちの歴史がこうして世間に伝えられてよかった」と,とても感傷的な様子で邱新金さんは私たちに語りかけたのでした。
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