この9月19日から3期にわたって三井記念美術館で開かれる展示会「慶應義塾創立150年記念『夢と追憶の江戸』―高橋誠一郎浮世絵コレクション名品展―」は,塾の経済学者であり文部大臣などの要職を歴任した高橋誠一郎が所蔵していた浮世絵の展示だが,これとは別に彼が専門の経済書についての稀代のコレクターであったことは一般にもよく知られていよう。高橋の没後,塾の図書館に寄贈された高橋の旧蔵書をいまメディアセンターの請求番号ごとに示せばつぎのようになる。寄贈されたものにはおよそ1,300冊の和書も含まれてはいるが,さしあたり約2,300冊の洋書に限定すれば以下のごとくである。
1100 経済学・経済史・経済政策
1101 金融・財政
1102 政治・法律・社会
1103 哲学・歴史・文学・美術・雑
高橋自身の専門が経済学史・経済思想史研究であり,とくに重商主義を含めた初期の経済学説に主たる関心があったことはあまねく知られている。このような関心を反映して,初期の経済書のコレクションには誠に充実したものがあり,他の追随を許さない。また,それに続く古典派経済学やマルクスについても,旧蔵書がマルサスの『人口論』『原理』初版やリカードウの『経済学および課税の原理』初版,そしてマルクスの『資本論』初版を含んでいることは,ご存知の方も少なくないと思う。これらについては,いままでもさまざまな形で言及される機会があったし(重商主義期から19世紀までを射程にいれたものとしては,丸善での展示のさいに作成された『高橋誠一郎旧蔵古版西洋経済書展』を参照されたい。),また今後もそのような機会はかならずあるだろうと考えられる。これらについて現在の学問水準をふまえた解説はいまの私には難しいので,私自身の専門的な関心から19世紀以降の,あるいは古典派以降の経済書について旧蔵書の所蔵状況を調べておきたい。どちらかといえば,やや新しい文献を対象にして所蔵状況を確認しておきたい,というのが拙稿の趣旨である。貴重書室の所蔵になる18世紀以前の燦然と輝く古書に比するとやや地味な感は否めないが,それでも高橋経済学の研究や本塾図書館の重要なコレクションである高橋旧蔵書の内実を精査するための一里程標にはなるものと考える。
高橋の若き日々には,まだスター級の経済学者の集団であったドイツ歴史学派からみていきたい。歴史学派の先駆といわれるリストについては,主著『経済学の国民的体系』初版を所蔵している。また,しばしばこの学派の創始者に数えられるロッシャーについては,歴史学派のプログラム宣言とも称される『国家経済学講義要綱』のほか,1854年から公刊が始まる浩瀚な『体系』の第1巻『国民経済学の基礎』が旧蔵書のなかに含まれている。また,同じく初期歴史学派に存するヒルデブラントについては『現在および将来の国民経済学』初版が,またクニースにかんしては『歴史的方法の観点からなる経済学』初版が所蔵されている。このように,リストから初期歴史学派にかんしては主著の初版はほぼ網羅されているといってよい。ただし,高橋の同学派にたいする評価は必ずしも高くなく,『経済学史略』では「歴史学派は,其の発生以来,かなりに長い年月を経過したに拘らず,何等分類の合理的体系のない事実の蓄積・資料の蒐集以上に多く出ることが出来ず,未だ独自の経済理論を完成することがなかったのである」(p.490)として,なかなか手厳しい。蔵書構築の結果と蔵書主自身の評価が食い違う例ともなっている。
なお,歴史学派とはいささか異質の系譜であるが,ドイツにおける理論経済学の発展という見地からは逸しえないヘルマンの『国家経済学研究』初版も高橋の蔵書には含まれていることも付言しておきたい。ヘルマンは高橋が経済学の理論的発展という見地から重視したドイツの理論家であり,『古版西洋経済書解題』では「独創に富める鋭敏にして且つ周到なる推論家であった」(p.503)としている。同じく初期のドイツ人理論経済学者,ゴッセンについては1889年版を所蔵。ゴッセンの『人間交易論』初版は著しく稀覯な奇書だが,高橋旧蔵書を含めて塾図書館にはコピーがない。初版『人間交易論』は高橋の関心の外にあったのか。あるいは探してはみたが,ハンティングが不首尾だったのか。いずれにせよ,惜しまれるところであり将来の図書館の蔵書構築の課題でもあろう。
限界革命のトリオとしては,メンガー,ワルラス,ジェボンズの3人が知られている。まずメンガーだが,高橋旧蔵書は,『国民経済学原理』にかんしては初版と死後に子息の手によって公刊された2版を有している。高橋が2版『原理』に関心を有していたことは,特筆に値しよう。現在でもなお,英語圏の読者は一般に2版『原理』には無関心である。また,1883年刊行の『方法論』も旧蔵書のなかには含まれている。『方法論』については本塾図書館は誠に充実していて,OPACで確認できるものだけカウントしても高橋のものを含めて10点を有している。ワルラスの『純粋経済学要論』は,「著者によって検討,増補された決定版」(タイトル・ページ)と称された1926年の版を所蔵。これは著者自身によって「決定版」といわれた1900年公刊の第4版と,内容的には二,三の細かい点を除けばほとんど変わらない。ジェボンズにかんしては『経済学の理論』第2版,第4版が旧蔵書に含まれている。
これに続く世代についてはどうか。まずは,メンガーの学風を継ぐオーストリア学派の第二世代にかんして。ヴィーザーの『自然的価値』は1889年公刊の初版を所蔵。加えて,スマートの序文付きの英訳も蔵書には含まれている。さらに,ケンブリッジ学派の始祖とされるマーシャルについては『原理』初版,第5版のほか,『貨幣信用貿易』初版をも所蔵している。さらに若い世代になるが,『一般理論』の著者の父親であるジョン・ネビル・ケインズの『経済学の領域と方法』も初版を有している。
高橋が海外で書籍収集に従事したことはよく知られているが,蔵書票などから書物の来歴について情報が得られるケースもある。ロッシャーの『国民経済学の基礎』第21版は所蔵されているが,ここにはHeinrich Wenigerの蔵書票が貼られていて(写真1),さらにDr. Hans Preiss書店の表示もみられる(写真2)。同社はベルリンの書籍商であったようだ。ヴェーニガーからプライス書店に渡ったのかあるいは逆なのかはわからない。高橋の書籍購入はもちろん帰国後も続いている。その場合,しばしば日本の輸入代理店が使われた。たとえば,ジェボンズの『経済学の理論』第4版には丸善の社名が見られるので同社から購入した可能性が高い。
以上,比較的公刊年が新しいものに限定して,巨大な高橋旧蔵書の一部を瞥見してみた。高橋の著書でいえば『経済学史 上』でなく『経済学史略』などの世界である。さらに高橋が利用した二次文献の調査にも旧蔵書は利用できる。この観点からなる経済思想史研究の文献調査も必要な手続きである。また,和書についても献呈のさいの書き込みなどがあることが予想され,重要な資料たるを失わない。これらはすべて将来の課題である。
最後に貴重書の将来像をとくに研究者,利用者という立場からスケッチしておきたい。このところの情報技術の進展にはめざましいものがあり,古書と研究者との関係にも新しい展開がみられた。高橋の蔵書には個人コレクターとしての関心や嗜好が強く感じられる。しかし,個人蔵書は当該個人やその関係者しか見られないという難点がある。これは,蔵書が大学図書館などの公的な機関に寄贈されることによって,ある程度解消される。その限りで古書は公的な存在となる。情報技術の進展によって,加えてウェブ上でも貴重書を見られるようになった。ゴールドスミス・クレス,ライブラリーの電子媒体化がそれである。とくにこれらの媒体では,高橋が収集した書物とのかなりの重複が含まれている。こうした電子媒体が研究者と書物との関係を急激に変えていく可能性はあろうが,利用範囲,公開範囲という観点からは,これも当該機関の研究者しか見られないという限界からは出ていない。電子媒体化は周知のように図書館経営を著しく圧迫しており,その意味では脱資本主義というよりはウルトラ資本主義なのである。日々ダウンロードにいそしむ研究者は,総体としての電子媒体にどのくらいのコストがかかっているかに想いをはせるべきだろう。古書がネット上で無料で全面公開され,完全なる社会性を獲得する日がいずれは来るのだろうか。ユビキタス社会の興味深い一論点である。
本稿で言及した文献
1)Malthus,Thomas Robert.An essay on the principle of population.London,Printed for J. Johnson,1798.
2)Malthus,Thomas Robert.Principles of political economy.London,J. Murray,1820.
3)Ricardo,David.On the principles of political economy, and taxation.London,John Murray,1817.
4)Marx,Karl.Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie.Hamburg,O. Meissner,1867.
5)List,Friedrich.Das nationale System der politischen Ökonomie.Stuttgart,J. G. Cotta,1841.
6)Roscher,Wilhelm.Grundriss zu Vorlesungen über die Staatswirthschaft.Göttingen,Dieterichschen Buchhandlung,1843.
7)Roscher,Wilhelm.Die Grundlagen der Nationalökonomie.Stuttgart; Tübingen, J. G,Cotta'scher Verlag,1854.
8)Hildebrand,Bruno.Die Nationalökonomie der Gegenwart und Zukunft.Frankfurt a. M.,Literarische Anstalt(J. Rütten),1848.
9)Knies,Karl.Die politische Oekonomie vom Standpunkte der geschichtlichen Methode.Braunschweig,C. A. Schwetschke,1853.
10)Hermann.Friedrich Benedikt Wilhelm. Staatswirthschaftliche Untersuchungen.München,A. Weber'schen Buchhandlung,1832.
11)Gossen,Hermann Heinrich.Entwickelung der Gesetze des menschlichen Verkehrs. Neue Ausg.Berlin,R. L. Prager,1889.
12)Menger,Carl.Grundsätze der Volkswirtschaftslehre.Wien,W. Braumüller,1871.
13)Menger,Carl.Grundsätze der Volkswirtschaftslehre. 2. Aufl.Wien,Hölder-Pichler-Tempsky,1923.
14)Menger,Carl.Untersuchungen über die Methode der Socialwissenschaften, und der politischen Oekonomie insbesondere.Leipzig,Duncker & Humblot,1883.
15)Walras,Léon.Éléments d'économie politique pure.Paris,R. Pichon et R. Durand-Auzias,1926.
16)Jevons,William Stanley.The theory of political economy.London,Macmillan,1879.
17)Jevons,William Stanley.The theory of political economy.4th ed. London,Macmillan,1911.
18)Wieser,Friedrich Freiherr von.Der natürliche Werth.Wien,A. Hölder,1889.
19)Marshall,Alfred.Principles of economics.London; New York,Macmillan and Co.,1890.
20)Marshall,Alfred.Principles of economics.5th ed. London,Macmillan,1907.
21)Marshall,Alfred.Money, credit & commerce.London,Macmillan,1923.
22)Keynes,John Neville.The scope and method of political economy.London,Macmillan,1891.
23)Roscher,Wilhelm.Die Grundlagen der Nationalökonomie. 21. Aufl.Stuttgart,Cotta,1894.
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