1 交流プログラムの沿革
トロント大学図書館と慶應義塾図書館は2004年より図書館員交流プログラムを実施している。トロント大学は,現在までに慶應義塾大学から4人の図書館員を迎えた。各図書館員は,5,6ヶ月の滞在期間中,トロント大学図書館のさまざまな部署を訪問し,図書館の組織構造の概要を学ぶだけではなく,実際に図書館現場で行っている実務を観察したり,シニアスタッフミーティングに参加したりしている。また,彼らは,トロント大学図書館以外に,ロイヤル・オンタリオ博物館,国際交流基金,オンタリオ州議会図書館など,トロントに在住する図書館員と交流を広げるにいたっている。他方トロント大学からは今まで,3人の図書館員が慶應義塾でお世話になっている。研修期間は,短ければ1週間,長くとも3ヶ月で,比較的短い期間であった。まず,はじめに私が慶應義塾図書館で受けた研究内容と活動について簡単に述べたい。さらに,研修の間,何を観察し,何を学んだかを述べたいと思う。
2 研修の概要
研修期間は2009年2月23日から3月13日と,1か月に満たない短期間であったため,全体を概観するような一般的な研修ではなく,密度の濃い研修になるよう,テーマを絞る形で研修計画が作られた。
初日はメディアセンター本部事務長と課長から,慶應義塾大学の図書館の組織構造,人事管理,予算等について話を聞き,次に,三田メディアセンター事務長と課長に三田メディアセンター(慶應義塾図書館)の歴史,蔵書構築,さまざまなプロジェクトやレファレンスサービスの説明を受けた。その後,研修期間を通じて席を置くこととなった選書担当部門の担当者から,収書,目録,選書のサイクルや仕事の流れについての説明を受け,慶應義塾図書館に関する理解がさらに深まった。その新しい情報は,自分がトロント大学図書館で携わっている仕事やトロント大学でのやり方にどう応用したら,より効率を高められるだろうかと考えるよい刺激となった。
このように慶應義塾大学の図書館概要のレクチャーを受けたのち,今回の研修のメインである「吉田小五郎コレクション」の整理と展示を行った。ここについては,研修期間を通じてパートナーを組むこととなった貴重書・選書担当の倉持氏との共同作業となった。
3 吉田小五郎コレクションの整理と展示
2008年9月に慶應義塾図書館は,元慶應義塾幼稚舎(小学校)教員で舎長も務めた吉田小五郎が収集した資料の寄贈を受けた。キリシタン史の研究者として著名であった吉田小五郎のコレクションはキリシタン史関連の図書をはじめ,和装本,豆本,古文書,雑誌,新聞,また福澤諭吉関係資料などが含まれる興味深いものである。
私の主な仕事は,これらの資料の書誌データを取って,簡易なExcelファイルを作ることであった。このリスト作成は私にとって大変良い勉強になった。扱った多くの資料は江戸後期に出版されたものであったため,元号や干支紀年法で書かれていた出版年の解読に歴史年表の使い方を学ぶ必要があった。また,くずし字でうまく読めない漢字を読むことで,日本語の勉強にもなった。トロント大学ではそういった貴重資料を扱う機会がなかなかないが,将来取り扱わなければならない場合には,今回の経験を活かすことができるに違いない。リストを作成している間は,学問的かつ美学的に魅力的な書物に注目していた。その後,倉持氏と二人で,展示の準備のため資料の選択を始めた。展示は資料を5つのグループに分けて並べる方法をとった。1つ目のケースに吉田小五郎の伝記,写真,彼によって執筆されたもの,そして翻訳された図書を収めた。2つ目には和蘭関係資料,3つ目にはオランダ以外の国の対外関係資料といった具合に展示ケースごとに整理し,残り2つのケースにはキリシタン史関係資料と豆本・珍本を並べた。吉田小五郎の幅広い興味の範囲を表現することができたと自負している。
4 慶應義塾とトロント2つの図書館を観て
3週間の研修期間を通して見えてきた慶應義塾大学とトロント大学のさまざまな違いについて述べてみたい。
図書館職員の構成や雇用システムについて見てみると,慶應義塾では専任職員が比較的少なく,多くが業務委託や派遣会社のスタッフであり,トレーニングや作業は慶應義塾図書館の中で行われていることがわかった。一方,トロントでは,アウトソーシングと言えば,shelf-readyと言う印象を受ける。shelf-readyというのは,購入した本が,装備まで終わった状態で目録データも付与されて届く,というサービスで,タトルテープ,Book-ID貼付,蔵書印押印,請求記号ラベル貼付までが終わっているので,図書館では,目録データにリンクを貼ればよいだけというものである。慶應義塾のような常駐スタッフの大半が外部委託である雇用制度はトロントでは考えられない。労働組合が強いトロント大学では,専任職員の地位は手厚く守られている。
図書館員の専門性について目を向けてみたい。北米の大学図書館員はほとんど何らかの専門性を持っている。専門性とは,主題分野の深い知識,または外国語の能力などを意味する。そして図書館員は自分が担当する分野について,さらに知識を習得する努力を怠らない。専門性が高度になり,スペシャリストになるにつれ,研究者や教授たちから同僚として,かつ彼らの研究のリソースパーソンとして認められるようになる。日本の大学図書館員は,どちらかと言えば,図書館における一般的な知識を得て,また図書館でさまざまな責任を与えられ,図書館のジェネラリストや管理職として活躍するのが通例である。これには人事異動が関連していると考える。
定期的な人事異動は日本の組織を象徴する制度である。この制度のもとでは,業務を担当部門で共有しているため,一人の担当者が短期又は長期間不在となっても,残ったスタッフで,同じパフォーマンスレベルを維持することができるという利点がある。それに対して,スペシャリストしかいない場合は,そう簡単にはいかない。トロント大学で日本語を担当している図書館員は私一人であり,ほかの同僚に私の仕事を任せるのは不可能である。スペシャリストを育成する利点は,教員のニーズを図書館員が理解しやすくなることといえよう。それがやがては北米で非常に強調されている司書のFaculty Liaisonとしての活躍につながるといえる。選書に対するアプローチも違うことが分かった。慶應義塾では学部予算と図書館予算の二つの予算が存在する。学部予算を使用しての資料の選定は教員の専管事項である。教員が選書に多大な権力を持っていることを珍しく思った。出版社もしくは出版取次会社から得た情報をもとに,教員が選定し,図書館に購入依頼する。図書館予算についても教員は図書を推薦することができる。それに比べ,トロント大学では,すべての予算は図書館に任されている。もちろん,教員からの依頼や推薦に応じて選書は行うが,選書は完全に図書館員に任されている。慶應義塾の場合はスペシャリストの割りあいが少ないため,教員の意見を必要とするのであろう。どちらがやりやすいかと言えば,図書館員にとってはトロント大学の方法だと思うが,いくら図書館員に任されているとはいえ,教員の無反応は大変問題である。どんなシステムを選ぶにしても,教員のニーズを把握して選書することが必要である。図書館員と教員が協力して選書にあたることのできる体制が理想であるが,その実現は簡単ではない。
5 画期的なイニシアティブ
この研修での私の重要な目的のひとつは,現在慶應義塾大学で提供されているサービスや独自の画期的な試みなどを視察することだった。慶應の革新的なアイディアをトロントで応用できれば,研修の意義が増すのではないかと思った。
日吉メディアセンターを見学したときのことである。図書館に入ると,派手なポスターが目に入った。「先生のオススメ本おしえます!」や「ネットもいいけど…本も読んでみない?」などの強いインパクトのメッセージが書いてあった。レファレンス担当の中堅職員S氏は「学生を勉強させるためには,まず本や読書に興味を持ってもらうこと」という考えを持っている。私もそう思う。インターネットの普及によって,活字離れが増し,本を読む学生がだんだん減ってきている。このような戦略は,読書の楽しさをアピールするのに効率的だと思う。さらに教員にお薦めの短評を書いてもらうことは,faculty liaisonとして,とても効率的なアプローチだと思う。
近年,漫画は教材として使われることが増えてきている。漫画を大学図書館で収集するのがふさわしいかどうか,議論のあるところである。昨年より日吉メディアセンターでは教職員が作成したリストに従って,漫画を受入れ始めた。日吉で収集している漫画を見ると,歴史的な内容の漫画や,社会や政治的な問題に関連する漫画が主だった。例えば,アウシュヴィッツを描く「MAUS」や「パレスチナ」という漫画があった。トロント大学では原則として漫画を収集していないが,北米でも,積極的に収集している図書館がある。北米では日本関連では,古典文化よりポピュラー・カルチャーが特に盛んになりつつあり,いずれは漫画を大学図書館で収集することも当たり前のようになるのではないかと考える。もう一つ面白いと思ったのは蔵書のブックカバー付装備であった。日吉では,一部の本にブッカーを貼って,本の表紙を保持している。最近は文庫・新書もブックカバー付装備をしている。貸出統計をみると,以前より毎月1000冊以上貸出冊数が増えているそうだ。ブックカバーの持つ意味が大きい。特に日本の図書の場合,ブックカバーに著者の略歴や紹介といった情報が付記されていることが多い。トロント大学ではおそらくブックカバー付装備はコスト的に実現不可能であろうが,日吉の実例を参考にし,利用者の貸出行動に影響を与えるものはなにかを真剣に検討したうえで,アプローチ方法を考える必要があるかもしれない。
6 おわりに
慶應義塾大学は創立者の福澤諭吉の精神を受け継いでいる。彼が西洋文化や思想に触れたように,慶應義塾大学の図書館員は何年にも亘るシカゴ大学,カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA),同大学サンディエゴ校(UCSD)トロント大学,ハーバード大学との交流プログラムで海外の大学図書館研修を実施している。こうしたプログラムを通じて,慶應義塾図書館は,国際的な視点を持ち,図書館界の発展に貢献してきた。個々のスタッフは高度な英語能力を持ち,あるいは日本国内外の図書館事情の知識を深めている。また,慶應義塾大学では,目録データをOCLCに提供しており,グローバル化時代の図書館協力において,国際的に貢献している。
トロント大学と慶應義塾大学の図書館員交流プログラムは図書館員として見識を高める上で優れていると思う。比較的短い滞在期間ではあったが,配慮された研修内容であったため,明確な方向性を持った,充実した研修を行うことができた。貴重書の書誌データの取り方を学んだだけではなく,倉持氏の古文書や日本史等の深い知識に学ぶことも多く,日本語や歴史の勉強にもなった。西洋語を読みなれている私には,洋書は手早く片付けることができたが,日本語資料については,倉持氏と力を合わせて仕上げられたと思う。展示の実施にあたり,駆けつけてくださった吉田小五郎氏のご遺族の方や慶應のスタッフから展示企画について,感想や評価をいただいて,改めて達成感を得ることができた。研修期間中,早稲田,上智,東京大学と慶應以外の大学図書館に見学にもでかけたため,日本の大学図書館をより理解することができたと考える。どこの図書館も,紙媒体と電子資料のバランス,予算,学習スペース,変わりつつある業務環境など,北米の図書館と同様の問題に直面している。学問と研究を支えるために優れたサービスをいかに提供したらよいかという悩みや目標も図書館の共通のものであった。
最後に,トロント大学図書館と慶應義塾図書館の皆様に心より感謝申し上げたいと思う。慶應の皆様のおかげで,刺激的で,過ごしやすく,かつ充実した3週間となった。プログラムを通して図書館員として知識を深め,互いにたくさんの刺激を受けた。今後,ネットワークを広げ,もっと協力し合い,お互いにより成長し続けることができれば幸いである。
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