1 はじめに 本誌13号の「シーボルトとの邂逅」という記事の末尾で「たった一人のシーボルト・ツアー」を予定していると書いたが,それは2006年夏実現した。Thomas Cookの時刻表を片手にロンドン―ヴュルツブルク―ライデン―デルフト―アントワープ―ブリュッセル―ロンドンというグランド・ツアーで,そのうちのヴュルツブルクのシーボルト博物館とヴュルツブルク大学図書館,ライデンのシーボルトハウスと国立植物標本館の図書館がシーボルト・ツアーであった。ツアーで出会うシーボルト関係書により,シーボルト直筆書き込みがある本塾図書館資料が少しでも解明されることを期待してのツアーでもあった。
2 『日本植物誌分類』
(1)その概要 慶應本の『フローラエ・ジャポニカエ分類』(以下『日本植物誌分類』)はインターリーフ化されており,元がどのようになっていたか,筆者自身,明確に把握していなかった。直筆ということに囚われていたからである。OPACから書誌情報をみると,以下の通りである。 1)Florae japonicae familiae naturales, adjectis generum et Specierum exemplis selectis/Auctoribus:Fr. de Siebold et J.G. Zuccarini Munich:Akademie der Wissenschaften, 1845-46. 2)Abhandlungen der Mathematisch‐Physikalischen Classe der Königlich Bayerischen Akademie der Wissenschaften;4(2)109-204, 1845, 4(3)125-240, 1846. 1)を見ると,単行書に見えるが,2)を見ると,雑誌論文であることがわかる。バイエルの自然科学学会誌で,シーボルトの『日本植物誌』の関連文献として合本している。訪問したヴュルツブルク大学,ライデンの国立植物標本館(ライデン大学図書館分館),九州大学,国際交流基金情報センターの各図書館で合本所蔵されていることを考えると,雑誌とは別に,合本で販売されていたのかもしれない。「reprint」と注記してあるOCLCのデータもあったためである。 『日本植物誌分類』は,日本の植物を,科(family)が140,属(genus)が440,種(spieces)が840と階層分けして分類し,各植物について1点づつ解説がついており,151点の挿絵がある『日本植物誌』と違って,挿絵がないものである。ここで著者としてツッカリーニの名がでているように,『日本植物誌』は,日本の関る知識の統合者的存在であったシーボルトの植物誌関係を支えていたツッカリーニなしには,完成されなかったと言われている。 『日本植物誌』は,分冊で出され,全2巻である。1835年に第1巻,全10分冊が刊行され,1844年までに第2巻第5分冊まで刊行された。しかし,次の分冊(第2巻第6分冊)以降は,シーボルト死後,1866年にミクエルによって出版され,1870年に第2巻が完結された。いわば,『日本植物誌分類』は,『日本植物誌』の分冊が止まっている間に,刊行されたものである。 シーボルトが日本で採取した植物は1万2千点と言われている。ケンペルやツュンベルクの植物誌や,中国や日本の本草学本で同定できた植物を『日本植物誌分類』に分類して掲載した可能性が高い。
(2)慶應本『日本植物誌分類』 慶應本の特色は,雑誌をばらして,白紙を1頁ごとに挟んでインターリーフ化し,白紙の部分にメモがシーボルトの繊細な筆致で書かれていることにある。後述するライデンの国立植物標本館以外,ビュルツブルク大学図書館,九州大学図書館,国際交流基金所蔵の『日本植物誌分類』は,学会誌の二つの号を合本してあるだけで,インターリーフではなかった。直筆メモがある『日本植物誌分類』の購入先は不明であったが,本に挟まっていた幸田成友のメモによると,ライプツッヒの古書店であるGustav Fockで購入したものであった。ヴュルツブルク大学図書館員によると,ミュンヘンのドイツ国立図書館にフォク社の古書カタログ,Antiquariatskatalogが所蔵されているとメールで知らせてくれた。 慶應本『日本植物誌分類』に書かれているシーボルトの直筆メモを読みこなすことできないが,「Thurnberg」「Nagasaki」のなどの文字が読みとれる。
(3)ライデン本『日本植物誌分類』 ヴュルツブルク大学図書館で貴重書扱いになっていた『日本植物誌分類』を閲覧する予定であったが,担当者が休暇のため手違いで閲覧できなかった。しかし帰国後,「インターリーフではない」とメールが届いた。 ヴュルツブルクから列車でライデンへ向かった。ライデン大学のOPACで『日本植物誌分類』を検索するとヒットしたので,ただ閲覧する予定であった。ライデン大学図書館分館としても図書も所蔵している植物標本館は,運河が張り巡らす市街から離れたところにある。Eメールの控を見せると,一般書庫から『日本植物誌分類』を出してきてくれた。閲覧すると,インターリーフ化され,書き込みがされていたのである。しかし慶應本『日本植物誌分類』とは異なる筆跡であった。書き込みは,植物名が和名,漢名で書かれていた。さらに,“Keisuke Ito”の文字がある。伊藤圭介は,シーボルト門下として活躍し,ツュンベルクの『日本植物誌』(1778)を和訳し,和名を記した『泰西泰本草名疏』(1829)を刊行している。そのために『日本植物誌分類』の和名の付与には関っており,さらにシーボルトの助手一人である郭成章も手伝ったと思われる。 また,ライデン本『日本植物誌分類』の遊び紙には鉛筆書きで“Schultes”と“Hoffmann”という文字がある。図書受入の際,走り書きしたと思われる。シュルツは,詳しい経歴は分からないが,中国の植物に詳しい人物で,一方ヨハン・ジョセフ・ホフマンは福沢諭吉が蘭語,英語を学んだ語学書の著者であったので,帰国後,OPACを引いてみると,“Noms indigenes d'un choix de plantes du Japon et de la Chine, determines d'apres les echantillons de l'Herbier des pays-bas a Leyde:E.J. Brill, 1864”という(『ラテン語和漢名植物対訳集』)本が所蔵されていた。またもそれは幸田成友旧蔵書であった。1864年に刊行された本書は,日本,中国固有の植物にそれぞれの言語で訳をつけており,総数は630点で,その構成はラテン語名をABC順に並べ,それぞれに和名,漢名がつけられ,巻末索引にはローマ字化された中国名と日本名の索引がついている。ライデン本『日本植物誌分類』の撮影箇所にあるヒノキの一種であるイブキは,「Juniperus chinensis Linn,檜柏,kouei,Kwaibak」と記載されている。 ホフマンとシュルツは,この『ラテン語和漢植物名対訳集』を出す12年前のその出版を予期する論文をJournal Asiatique(no. 10, 1852)に書いている。“Noms indigenes d'un choix de plantes du japon et de la chine”である。関連箇所を要約すると,ホフマンが,1850年夏にシュルツに両国語名の付与を依頼していること,和名,漢名を付与する際に参考としたのが,『花彙』(島田充房・小野蘭山 1765),『物品識目』(水谷助六,1809),『重訂本草綱目(和刻本)』(李時珍,1672)であったことが書かれていた。水谷助六の弟子が,ライデン本に署名があった伊藤圭介であった。 シーボルトの仕事を手伝っている内に日本語が上達したホフマンは,1855年にライデン大学における初代日本語担当教授に就任し,遣欧使節の翌年の1863年からライデン大学に留学してフィセリングに法学・政治学の指導を受け,後に福澤諭吉等と『明六雑誌』で活躍した津田真道と西周から日本語を学び,67年には『日本文典』を出版するに至った。日本語の素養をいかして,1864年にホフマンは『ラテン語和漢植物対訳集』をブリル社から出版していたのである。 ホフマン,和名,漢名,植物名の和漢対訳集に関する論文などから考えると,ライデン本『日本植物誌分類』の和名,漢名の書き込みは,『ラテン語和漢植物名対訳集』の出版を目的としていたのであり,呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』(1896)で書かれているように,伊藤圭介が和名,漢名を付与し,その資料が植物標本館に存在することを考慮すると,伊藤圭介が付与し,それを参考にホフマン,シュルツが本として『ラテン語和漢植物名対訳集』を刊行したと推測できる。
3 ライデン
(1)福澤諭吉 シーボルトの『日本植物誌』についての知識を広げるために,OPACで探していると,大場秀章『植物学とオランダ』(八坂書房,2007)という図書に出会った。デュ・ラーケンハル博物館刊行の図書を用いて,1862年の遣欧使節団のライデン訪問について冒頭で触れられていた。冨田正丈『考証福澤諭吉』(岩波,1992),河北展生・佐志傳『「福翁自伝」を読む』(慶應義塾大学出版社,2006)では,ライデンの記述が少ないと指摘されており,遣欧使節のことを記した「西航記」においては,ライデンの日程は空欄となっている。「東大シーボルト文書」や『シーボルト日記』(石山禎一ほか訳,八坂書房,2006)によると,遣欧使節の立案にはシーボルトが参画しており,そのことは福沢諭吉が『西航手帳』にメモしたケルンでヘレーネ・シーボルト夫人に会ったことに結びつくことかもしれない。 入手した『誉れ高き来訪者』(2000)から使節団の日程を見てみよう。ロンドンから船でヘレフーツスラウスに着き,そしてロッテルダム,ライデン,ハーグ,アムステルダム,そしてユトレヒトからプロシアのケルンに行っている。オランダでの接待委員長は,陸軍少将で王室侍従長であるJ.M.フォン・リンデンであった。ホスト役はJ.ホフマンで,4月のパリ訪問からロンドンを経てオランダまで使節団に随行していた。 6月24日:ライデンで,印刷業者であるA.W.サイトホフが漢字活字を使った「使節団名簿」(福澤研究センター蔵)を進呈。 7月4日:ライデンの自然史博物館,植物園を見学し,ライデン大学講堂で学長から歓迎を受ける。そのほか,天文台,物理学室,化学実験研究所,解剖学室,J.Lポーレ & A.ポーレ織物工場,市庁舎,製鉄所を見学。 7月6日:松木弘安,箕作秋坪,山田八郎,福澤諭吉の4名は,ライデン市内を再度訪問,ホフマンの案内でライデン大学の物理学,解剖学教室を見学し,そしてラーペンベルクにある大学図書館を訪問。 遣欧使節団での翻訳方の三人について,『福翁自伝』(岩波文庫,1978)では「同行者は何れも幕府の役人連で,その中にまず同志同感,互いに目的を共にするというのは箕作秋坪と松木弘安と私と,この三人は年来の学友で互いに往来していたので,彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ」と語り,さらに蘭学の本拠を訪れた福澤は,「また各国巡回中,待遇の最も濃やかなるはオランダの右に出るものはない。これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。ことに私をはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから,文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったような訳で,自然に居心が宜い」と懐旧している。
(2)ホフマン 小冊子に出てきた「使節団名簿」と,「Yokohama」(1862)については『幸田成友著作集』第4巻の「ヨハン・ジョセフ・ホフマン」という小伝の中で書かれていた。贈られた「Yokohama」はBijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkundë van Nederlandsch-Indië, Nieuwe volgreeks, Deel 4.という雑誌の抜き刷りで,その雑誌は山中資料センターに雑誌扱いで所蔵されており,1983年に購入している。その漢字活字を見ると,1864年の『ラテン語和漢植物名対訳集』,1868年の『日本文典』と同じ活字,「ブリル社活字」であった。ブリル社が刊行してきた『活字見本帳』(1956,1970)を見ると,日本語活字(Japanese)はひらがな,カタカナを指し,漢字活字(Chinese)と区別している。5月に「ハリスと横浜」展(横浜開港資料館)で『日本文典』の元になったドンケル・クルティウスの『日本文法稿本』(1857)が展示されていたので,改めて慶應所蔵本を見ると,漢字が少なく,カタカナ活字が多く用いられていた。ホフマンとオランダ政府とが協力してできた漢字活字は,非アルファベット活字で定評のあるブリル社に1862年頃に払いさげられた。とりわけ,漢字活字はロバート・モリソンによる『字典』(1815)に見られるように英国が早く,オランダにおけるホフマン,ブリル社は1860年代初頭であった。日本では整版,版木による印刷であったので,ホフマン,ブリル社活字は,漢字,日本語活字としても見逃すことができない。
(3)伊藤圭介 『福澤諭吉全集』第21巻(岩波,1971再版)の「福澤諭吉年譜」で遣欧使節団の日程を確認した後,巻頭の方を見ていくと,「植物図説出版目論見書」という表題が目に入った。出版の見積もりで,その著者はシーボルトの弟子の伊藤圭介であった。ライデン本の『日本植物誌分類』に“Keisuke Ito”と署名があった人物である。見積りは年月日不詳となっているが,「蕃書取(ママ)調所,博物局,小石川植物園,東京大学ニ歴仕」と書かれ,肩書きには「理学博士」となっていることから判断すると,見積りの日付は1888年5月7日の学位授与日以降である。伊藤圭介は1874年に『日本植物図説―草部イ初篇』を出版しているが,伊藤圭介の展示会図録である『錦か図譜の世界』(名古屋大学附属図書館,2003)によると,『日本植物図説』は三男の謙による自費出版で,続巻は発刊されず,未完に終わっている。何らかの事情により,福澤諭吉よる伊藤圭介への出版支援は実現しなかったのである。
4 おわりに ツアーによってシーボルトを巡る世界は広がった。当初,貴重書担当者としてインターネット・内外OPACの利用,書誌情報の獲得,各種参考図書の利用,蔵書構成の把握,製本,活字,資料保存などの知識を得るために,シーボルトに挑戦してきた。今はその担当を離れているものの,シーボルトとの邂逅によって,貴重書に関してだけでなく,図書館利用全般おいて内外の利用者サービスを改めて知ることができた。そうした体験はいつか実務に還元できればと思っている。 昨年12月に南麻布のドイツ連邦共和国大使館で「日本ヴュルツブルク友の会・シーボルト協会」設立一周年レセプションが催され,出席した。ハンス=ヨアヒム・デア駐日ドイツ大使の挨拶でほとんどのドイツ人はシーボルトを知らず,日本に来て初めて知るとのことを聞き,シーボルト,それからホフマンを地道に調べていきたいと思った。そして幸田成友教授が収集した図書の中にシーボルト関係書が,まだ眠っているような気がしてならないのである。
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