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ナンバー17、2010年 目次へリンク 2010年11月30日発行
 
福沢諭吉著作等の版木について―その現状と来歴―
都倉 武之(とくら たけゆき)
慶應義塾福沢研究センター専任講師
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1 はじめに
 福沢諭吉は,いうまでもなく生涯で多くの書物を刊行した。それらを通して自らの主張を世に問うだけでなく,多くの偽版が出回ったことに対抗して著作者の権利確立を主張し,日本に著作権保護の考え方を定着させることに貢献したことはよく知られている。それに加えて,図書流通の仕組みにも変化をもたらそうとしたことは,あまり知られていない。福沢が著作活動を始めた江戸末期の商習慣として,出版は書物問屋が印刷・流通などの全てを取り仕切り,著者は原稿を提出してからはほとんど関与せず,いわれるがままの報酬を受け取るだけであった。これに疑問を感じた福沢は,自ら紙を買い付け,版木の彫師や刷師,製本仕立師まで雇って出版を自前で済ませ,書物問屋には手数料を払って売りさばきだけを担当させることとし,著者が相応の利益を得られるようにしたのである。一時は書物問屋から苦情を鳴らされたために「福沢屋諭吉」の名で問屋組合にも名を連ねていた。その後の福沢が実業界の発展を促進し,多くの門下生が実業家として活躍したことを重ね合わせれば,自らの手によるこの実業経験は意義深いものであったといえよう。
 ところで福沢が自ら出版業を手掛けたおかげで,慶應義塾には,福沢やその門下生の著作版木が大量に残されている。それらはあまりに厖大で,しかも煤だらけであったため,大部分が未整理のまま手をつけられずにいた。
 平成21年度,義塾が文部科学省より受けた「教育研究高度化のための支援体制整備事業」に対する補助金によって未整理部分に着手することとなり, ようやくこの版木を研究対象とする環境が整いつつある。
 本稿では,今回の作業を報告し,不完全ながら版木の現状を整理しておきたい。

2 現存する版木
 厖大な版木は,慶應義塾図書館旧館内に大きく2つのまとまりをなしていた。
 1つは,本館地下1階の倉庫(現在の版木室)にあったものである(仮にA群と呼ぶ)。天井が極端に低く非常に狭いこの部屋に,束ねて山積みとなった状態で残されていた。この版木は,平成4(1992)年頃,中等部教諭の杉本聰子氏,広瀬裕之氏,大澤輝嘉氏らによって調査が行われ,教育に活用できるもの約170枚が選び出され,中等部図書室に移された。残されたものは福沢研究センターにおいて数年を掛けて徐々に清掃と簡単な分類が行われ,版木室に棚を設けて保管してある。枚数や内訳は未集計であるが,多く見ても1000枚前後かと思われる。
 もう1つは,同じく図書館旧館の地下1階,第一・第二書庫間の階段下に積まれた大小計8つの木箱に収められていた。今回整理対象としたのはこれである(仮にB群とする)。正式な集計は未了であるが,その総計は2200枚以上である。
 また,これらとは別に,福沢の子孫清岡家から寄贈されたものや,古物市場に流出して買い戻したものなどが数十枚ある(仮にC群とする)。これらも現在版木室に保管している。
 いずれも虫損や破損は少なく,良好な状態である。

3 整理作業の概要
 B群の整理作業は,版木整理の経験のある平塚泰三氏(本塾文学部講師)の協力を得て,平成21年12月より22年3月にかけて,以下の手順で進めた。

(1)開封,燻蒸作業
 平成21年12月下旬,B群の木箱を開封し,段ボール約60箱に版木を移し替えた。22年1月上旬,それを専門業者に預けて燻蒸を実施した。

(2)塵の除去・拭き取り作業
 三田キャンパスの教室を借用し,2月から3月にかけて塾内外の学生,大学院生10名の協力で集中的に清掃を実施した。まず掃除機と刷毛を用い,各版木表面に堆積した塵や埃,カビなどを除去。さらに版木の表面に残る埃や表面に浮いた墨を,水に浸し固く絞ったネル布(起毛生地)で1枚1枚拭った。作業は防塵マスク・ゴーグル,白衣を着用するなど万全を期したが,数十年分の埃が舞う中での連日の作業により,体調不良となる者も出た。

(3)分類作業
 版面の中央折り目部分(版心)に刻まれた表題を手掛かりに版木を分類し,さらに丁付順に並べ,段ボールに箱詰めした。小型の段ボール約100箱に収まった版木は,現在東館地下1階に仮保管している。

4 B群版木の内容
 今回清掃された版木からは,福沢諭吉の著作だけで,20タイトルほどが検出されたが,中でも『童蒙教草』が300枚弱,『訓蒙窮理図解』・『世界国尽(素本)』がそれぞれおよそ150枚と多く,『洋兵明鑑』も100枚以上あった。A群のタイトルと合わせれば,福沢が自らの蔵版として冊子体で出版した版本については,何らかの版木が現存していることが確認された(快堂(木村喜毅)蔵版の『増訂華英通語』,仙台藩蔵版の『兵士懐中便覧』,冊子体ではない『日本地図草子』は確認されていない)。
 福沢著作以外で見出された門下生等の著作をざっと列挙すれば以下の通りである。
 『西洋旅案内外編』(吉田賢輔著)
 『天変地異』,『博物新編補遺』,『西洋各国銭穀出納表』,『経済入門一名生産道案内』,『英氏経済論』(以上小幡篤次郎著)
 『西洋学校軌範』(小幡甚三郎著)
 『新砲操練』(小幡甚三郎・浜野定四郎著)
 『絵入智慧之環』,『ちゑのいとぐち』(以上古川正雄著)
 『地学事始』,『サルゼント氏第三リイドル』,『傑氏万邦史略』(以上松山棟庵著)
 『訓蒙話草』,『初学読本』,『入学新書』,『童子諭』(以上福沢英之助著)
 『議事院談後編』(中上川彦次郎著)
 『訓蒙叢談』(海老名晋著)
 『訓蒙五条』(熊谷辰太郎著)
 『訓蒙二種』(海老名晋・四屋純三郎著)
 『小学地理問答』(阿部泰蔵著)
 『ピネヲ氏原版英文典直訳』(永島貞次郎著)
 このうち,『英氏経済論』は約150枚,『地学事始』は約90枚,『小学地理問答』は約80枚と比較的多く見出された。
 上記はB群に限定した一覧であり,A群には,これ以外のタイトルも含まれるため,明治初期に版本として慶應義塾より出版された著作は福沢著作以外についても,ほとんど何らかの版木が残っているといっても過言ではない状況である。
 ただし,版本との照合が困難なものも少なくない。例えば『小学地理問答』は,慶應義塾出版社の発兌書目に記載されていることから存在が確認できるだけで,福沢研究センターのみならず,慶應義塾図書館,国会図書館にも版本が所蔵されていない。
 また,詳細が不明の版木も検出されている。15枚確認された「人道小学」と題する版木については,一体誰がいつ出版した本か管見の限りでは全く確認できない。中島桑太著『熱海温泉考』という小冊子の版木も見出されたが,著作内容も著者も慶應義塾と無関係と思われ,なぜこの版木群に含まれているのか不明である。
 その他にも書籍以外の印刷物の版木が若干見られるので,今後現存している版木の全体像を精査することによって,慶應義塾とは無関係と思われる版木の検出や,書籍用以外の様々な印刷物(ラベル,領収書,広告など)の版木がさらに多く明らかとなるであろう。それらの把握によって,福沢研究に新たな一面が加わる可能性もあると期待している。

5 版木たちのその後
 ところで,不思議なことにこれらの版木が今日まで残された経緯が,十分明らかとなっていない。
 明治初期の日本においては,活版印刷技術の定着後も,活字の不揃いや印刷ミスの多さなどから木版印刷の方が信頼されていた。福沢も,しばらくは活字印刷と木版印刷を併用し,最後の版本は明治13(1880)年刊の『民間経済録』二編であった。
 木版の最大の欠点は磨滅である。1度の製版で200枚の印刷が限度と言われ,彫り直しや新たな製版が頻繁に必要となり,福沢著作の場合,不要となった版木も大変な量であったと想像される。
 福沢は明治15年に日刊新聞『時事新報』を創刊すると新聞事業に専念し,出版事業は中島精一という人物に任せている。その時使用可能な版木は,中島の管理下に移されたようであるが,明治21年3月の三田大火の際,中島の管理していた版木は焼失してしまったと推定される。このとき,義塾構内には火が及ばなかったため,今日現存する版木は,中島の許に運ばれなかったもの,すなわち明治20年頃には需要がなくなって絶版となっていた本の版木や,磨滅して廃物となっていた版木の可能性が高い。
 福沢は持ち前の合理的精神から,廃物版木を再利用し,福沢邸応接間の床板にしていたという。また,明治31年に新築された三田の幼稚舎校舎(現在生協食堂や学生ルームがある付近にあり,幼稚舎の天現寺移転後は商工学校が使用)の天井板に利用され,長年幼稚舎生が福沢を身近に感じる教材として親しまれた。さらに記念品として義塾関係者にわけた時期もあったらしく,版木を火鉢に仕立てた人もあったと伝わる。
 版木の再利用は,その後も戦前の慶應義塾史にしばしば顔を出す。昭和3(1928)年,図書館2階の大閲覧室(現旧館大会議室)の改修が行われ,閲覧席のついたてに数百枚の福沢著作の版木がはめ込まれた。昭和11年,塾長小泉信三は米国ハーバード大学300年祭に出席した際,同大学博物館に『西洋事情』の版木2枚を寄贈した。昭和12年,幼稚舎が天現寺新校舎に移転した際,新しい図書室の閲覧席には,三田の図書館同様に版木がはめ込まれた。
 福沢邸,三田の幼稚舎校舎,図書館閲覧室は,戦災で焼失し,塾内では幼稚舎図書室閲覧席にはめ込まれた48枚の現存だけが知られている。
 それではA・B群版木はどこから来たのか。
 実は,昭和25年に福沢家から733枚の版木がもたらされたという記録がある。これはA群の一部かと推測されるが,残された量と一致しない。
 筆者は,現存版木の多くは,幼稚舎の天井に使われていたものではないかと推測している。通常版木は表裏に版面があるが,A群の約半分,B群のほぼ全ての版木は,元々両面ある版面を片面ずつになるように半分に割ってあった。また割った後に釘を打った痕跡があり,釘が刺さっているものもあった。その状態は,天井板であったとすれば説明がつく。
 そのことと関連すると思われる記述が,図書館閲覧席に版木が設置されたことを報じる『三田新聞』(昭和3年9月15日付)にある。
 「此度薄暗い〔幼稚舎―都倉註,以下同〕天井から此処〔閲覧席〕に移って来た私達〔版木〕は……幼稚舎の一教室の分だけで,未だ四教室の天井には他の仲間が全部そのまゝ残って居ます。何れ彼等も天井から降りて来る事でせう。」
 昭和3年に版木を使用した閲覧席を作るとき,幼稚舎天井の版木が外されて利用されたというのだ。『福沢諭吉伝』(昭和7年刊)にも同様の記述があり,関東大震災を契機として版木保存の必要が主張され,耐火性の図書館で活用しながら保存することとしたという。そして,今後幼稚舎天井の版木を全て取り外し,「保存の法を講ずることになっている」とも記していることは,筆者の説を補強する。しかし幼稚舎天井の版木を外したという記録はなく,校舎とともに焼失したと長年伝えられてきたのは不可解だ。
 なおA群の残り半分と,C群の全ては,割られていない版木である。これらは再利用されず,そのままの状態で福沢家(A群)や関係者宅(C群)に保存されていたのであろう。
 このように,版木はそれ自体の調査研究とともに,今日に至る来歴についても,今少し入念な検討が必要な状況である。

6 おわりに
 慶應義塾に残された版木は,幕末から明治初期の福沢及びその門下生の著作活動を知る資料として,きわめて貴重である。また著作権確立を促し,出版業のビジネスモデルの転換を図り,さらには日本の近代化を促した記念碑的実物資料としてこれから一層重みを増すであろう。憾むべきは,現在の義塾にそれを適切に保存できる施設がなく,再び苔むす可能性がないとは言えないことである。
 今回の作業を契機として,これを再び埃とカビにまみれさせることなく,研究に活用していけるよう筆者も努力していきたい。

参考文献
1)杉本聰子.再摺版『西洋衣食住完』作成過程.慶應義塾中等部紀要.vol.1, 1995, p.4-21.
2)広瀬裕之.福沢諭吉と習字教科書.書写書道教育研究.vol.9, 1995, p.21-30.
3)広瀬裕之.慶應義塾幼稚舎読書机版木考.武蔵野女子大学紀要.vol.31, 1996, p.145-160.
4)鈴木信弘.版木.私家版.1998, p.135.

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