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ナンバー17、2010年 目次へリンク 2010年11月30日発行
 
田中一貞初代館長と慶應義塾図書館年報
石黒 敦子(いしぐろ あつこ)
三田メディアセンター事務長
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 「我邦昔より文庫あり。去れど書籍を保存するよりは寧ろ人に観覧せしむるを目的とする今日の所謂図書館なるものは明治時代に入りて始まりたりと云ふも不可なかるべし」と『慶應義塾創立五十年紀念図書館紀要』は語り始めている。
 日本最初の公開図書館は帝国図書館の前身の東京書籍館と京都の集書院で,ともに明治5年に設立された。その集書院については,当時の京都府参事の槇村正直に福澤諭吉が必要性を進言した史実もよく知られている。槇村との親密な関係はのちに京都慶應義塾の企画設立へとつながっている。福澤諭吉の地方の教育振興への意識はなみなみならないものがあった。その一つに西洋諸国で見聞してきた図書館の設立もあったのだろう。
 実は西洋諸国の図書館を「ビブリオテーキ」として日本に紹介したのも福澤諭吉である。『西洋事情』のなかで,「日用の書籍図画等より古書珍書に至るまで万国の書皆借り,衆人来りて随意に之を読むべし」と述べ,さらに「外国の書は之を買い,自国の書は国中にて新に出版する者より其書一部を文庫へ納めしむ」と納本制度にも触れている。
 慶應義塾にも「月波楼」という図書室やそれに続く「書館」が存在したが,赤レンガの図書館旧館が創立50年記念事業の一環で開館したのは,明治45年のことである。その開館式で参列者に配られたのが,上記の図書館紀要であった。
 のちに重要文化財に指定された図書館は,初代図書館監督(館長)となった田中一貞教授が義塾に残した形見,とも評された。純ゴシック式の図書館は瀟洒清楚とたたえられるが,美術に造詣が深かった田中監督が,館内の椅子,テーブル等の什器などまで,色合い,素材等に細心の注意を払い,作り上げたものだったからであろう。
 開館から6年後,「慶應義塾図書館年報」の初号である大正5年度版が発刊された。これが慶應義塾の図書館報の始まりといえる。「三田評論」大正6年6月号に,「義塾図書館にては大正5年度より年報を発行することとなり。愈近日中其初号の編輯を終わる筈なるが,昨年度中同館に於て施行せる事項は網羅して余す所なく必要なる事件は溯って其由来を説明し,尚昨年度中増加せる図書目録を添へたるを以て曩(さき)に出版せる同館図書目録及其後タイプライターと筆写にて作製の上閲覧室教員質等へ配布せる増加目録と相俟って完全なる同館図書目録を構成すべし。口絵としては図書館表面立図の外明治十年以前の福澤先生諸著書の写真を掲ぐる筈なり」とある。
 鎌田栄吉塾長(在任期間:明治31〜大正11年)が図書館年報の巻頭で述べているように,「図書館建築のための寄付金30余万円のうち,建築,設備に費やしたるは,約25万円にして,残額はことごとく図書館の基本金に組み入れ」,毎年その利子をもって図書を購入しつつあり,さらに図書購入費としての寄付も多く,急増する蔵書の増加目録を付して,図書館の現状を報告するために,年報は発刊されたといえよう。
 いまから,90数年前の図書館はどんな様子だったのか,大正5年度から10年度まで刊行された図書館年報から拾いあげてみよう。以下は大正5年度の数値である。
 蔵書数 83,124冊 *10年度では106,950冊に増加している。
 年間開館日数 329日
 閲覧人数 58,103名
 館内閲覧冊数 109,512冊
 館外貸出冊数 121,106冊
 蔵書数に比して利用冊数が多いのに驚く。いかに当時の学生が図書館を利用していたかがわかる。また,図書館新築以来,一般公衆(ママ)の閲覧を許可していたので, 年間858名の学外者が入館している。
 さらに驚くのは開館時間の長さである。
 開閉時間
 ・平日  午前8時開館  午後9時閉館
 ・日曜日 午前8時開館  午後4時閉館
 ・本塾臨時休業中 午前8時開館午後4時閉館
 ・本塾夏期休業中は午前8時開館正午閉館
 毎日曜日は終日閉館
 ・大学部学年試験前およそ1週間及試験中は特に午後10時まで開館
 という具合である。
 大正5年度の学生数を見てみると,大学部(理財科,法律科,政治科,文学科,予科)で3,036名,そのうちの205名が寄宿舎に入っていた。400名収容の寄宿舎に加え,大正6年には,広尾に新寄宿舎も建設されている。
 展覧会や講演会も定期的に開催しており,書籍の展覧会は毎月10日間ひらき,大正4年からはその都度専門家による講演会の開催も心がけていた。これは,アメリカの図書館において行われていたいわゆる公開書架(オープンシェルブス)制度と新規受入等の陳列会と講演会を兼ねたものであった。学生に研学の気風を醸成するために効果的であったらしい。 貴重書展示とは異なるものだったが,アダムスミス国富論の初版から各版の100余冊,英国東印度会社関連史料200冊,トマス・マンなどの稀覯書展示は特に注目をあびたと記されている。
 大正7年度版を開いてみると,「雑件」の項に,建築関連の参観者が多いことや,学生の父兄も見学に訪れたこと,また地方で新図書館建設計画が起きていたころでもあり,その事務担当者の見学なども多かったことが記されている。その都度,案内に立ち,説明をする見学ツアーのようなことも行われていたようだ。
 非常に充実した内容の図書館年報だったが,惜しいことに,6(大正10年度版)で廃刊となった。廃刊の事情は明確ではないが,図書館の蔵書やサービス充実に邁進し,広報を推進していた田中一貞が大正10年9月に亡くなったこと,年々受入図書が増え,増加目録作成に時間がかかり,大正10年度版は刊行が大正12年5月まで遅れたこと,さらに大正12年9月に関東大震災に見舞われたことなどが要因であろう。
 震災は図書館にかなりの建物被害をもたらし,各所に亀裂を生じた。書架に並んだ図書はことごとく床に落ちたと言う。それだけでなく,義塾が近隣の避難所となり,800名を越す避難民の受入をしたことなどを知るとこの年報が立ち消えとなったのも無理はないと思われる。
 次に図書館報が刊行されたのは,実にそれから40年以上を経た昭和42(1967)年であった。佐藤朔図書館長が図書館の広報の必要性を訴えて創刊した図書館報「八角塔」がそれにあたる。

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